2009-01-01から1年間の記事一覧

あなたは強くされる (上)

ジュネーブの旧市街にある古本屋です。よく見てください。左側の書籍棚は道路にじかに面し、閉店時に蝶番のある木の扉をパタンと閉めるだけでいいのです。たいへん新鮮な印象を受けました。 イザヤ6章1-9節 (1) 今日の聖書箇所は、タイトルが「イザヤ…

罪人を招く神 (下)

ジュネーブの旧市街にこんな遊覧車が走っています。坂道が多いので乗ると便利かもネ。 マルコ2章13-17節 (前回のつづき) イエスは、「私が来たのは、罪人を招くためである」とおっしゃいました。徴税人や罪人というのは人間の心までなくした、血も涙…

罪人を招く神 (上)

旧市街にジャン・カルヴァン通りというのがありました。 マルコ2章13-17節 (1) イエスはガリラヤ湖の畔で、集まった沢山の群衆に神の福音を語っておられました。そして、町の収税所のそばを通りかかられたとき、そこにアルファイの子レビが事務所に…

希望のしるしを見つける人 (下)

ジュネーブでは今カルヴァンの生誕500年が祝われこんなマンガが教会の壁にありました。 マルコ1章14-15節 (3) 私がこう言うのは、イエスこそ暗く決して良くない時代でしたが、ユダヤ社会の中で希望のしるしを発見していった人だからです。8月に…

希望のしるしを見つける人 (上)

ジュネーブ空港に降りると直ぐ前がSBBの空港駅。これから行く切符の手配を親切にしてくれました。 マルコ1章14-15節 (序) きのう遅く帰って来まして、今日はまだ時差ぼけでここに立っていますが、皆さんの元気なお姿を見て嬉しく思います。昨夜、…

向こう見ずな女? (下)

マルコ12章41-44節 (2) 何故こんなことができたのか。この貧しいやもめは金銭にまさる確かなものを持っていたからでしょう。それは、神への強い信頼です。神は今、捧げることを命じられたのだから、必ず神さまが責任を取ってくださるという、神へ…

向こう見ずな女? (上)

マルコ12章41-44節 (序) 今日の所には、イエスはお金持ちややもめがしていた献金を見ておられたとあります。しかも賽銭箱の前に座って見ておられたというのです。イエスがご覧になるのと、私たちが見るのとは違います。私たちは手元を見ますが、イ…

向こう見ずな女

09年8月30日(日) 朝10時45分-12時頃 聖 書 マルコによる福音書12章41-44節 説 教 「 向こう見ずな女 」 牧師 上垣 勝 会 場 板橋区氷川町47-3 板橋大山教会 ・三田線「板橋区役所前」から徒歩5分 ・東武東上線「大山」駅から徒歩…

暁の光を見ていますか (下)

ルカ9章28-36節 (3) イエスはその変貌によって、ご自分の中に神の光が存在し、満ちあふれていることをお示しになっただけではありません。神の子であることを啓示されました。また、イエスは私たちとその恵みとまことを分かち合おうとされたのです…

暁の光を見ていますか (上)

ルカ9章28-36節 (序) 今日は「山上の変貌」と呼ばれる箇所からご一緒に学びたいと思います。これはガリラヤ地方にあるタボル山で起ったとか、北方のシリアにあるヘルモン山での出来事であるとか色んな説がありますが、場所は未だ不明です。ただこの…

キリストの内に自分を見出す (下)

フィリピ3章1-9節 (3) そして4節以下で、もし「肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない」と述べて、彼の堂々とした経歴を並べます。ユダヤ人なら羨むばかりのものです。 だがそれを披瀝した後、パウロは、「私にとって有利であったこれらのことを…

キリストの内に自分を見出す (上)

フィリピ3章1-9節 (1) パウロは今日の冒頭で、「では、私の兄弟たち、主において喜びなさい」と書いています。 「では」とは、2章の終わりに書いた、テモテとエパフロディトのことに関係して、「では」と言っているのでしょう。彼らをそちらに送るが…

自由を生きる (下)

ヨハネ8章31-32節 (3) さて、イエスは32節で、私の言葉に留まるならば、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と語られました。真理そして自由です。自由には色んな自由があります。肉体的・身体的な自由もあり、心の自由、…

自由を生きる (上)

ヨハネ8章31-32節 (1) イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに、「私の言葉に留まるならば、あなたがたは本当に私の弟子である」と言われました。 イエスは、ご自分を初めて信じた人たちに言われたのですから、いわばキリストを信じて入信したばかり…

愛に命をかけた男 (下)

フィリピ2章25-30節 (2) パウロがここで述べていることは、エパフロディトは実に男らしい男だということだと言えるでしょうか。今述べましたように、瀕死の病でありながら自分より自分を送り出した教会のことを思いやり、心配をかけたことを心苦し…

愛に命をかけた男 (上)

フィリピ2章25-30節 (序) 今日は、「愛に命をかけた男」という題で、この夏の暑さに拍車を掛けるような暑い題です。しかし、愛には熱い愛もありますが静かな愛もありす。また、聖書の愛は上っ面のものでなく、海のような深さがあります。それは神と…

レッツ・ダンス!(上)

ゼファニヤ3章4-17節 (序) 今日は旧約聖書のゼファニヤ書から福音を聞きましょう。めったに開けた事のない箇所かも知れませんね。すると、いわば長く締め切られた部屋に入った時のように、かび臭さはあるかも知れませんし、蜘蛛の巣もかかっているか…

レッツ・ダンス (下)

ゼファニヤ3章4-17節 (3) 先週、人類が始めて月面探査をしてから40年を迎えました。40年も前に人間が月に行ったとは驚くべきことです。当時私たちは、宇宙服を着た人が月面をフワフワと歩く姿を食い入るように見とれました。宇宙に出たアポロ飛…

雄弁な足あと (下)

フィリピ2章19-24節 (3) さて21節は、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と言います。これはグサッと心に刺さりますね。フィリピの人たちの中にもグサッと刺さった人があったかも知れません。しかし…

雄弁な足あと (上)

フィリピ2章19-24節 (序) 今日は「雄弁な足あと」という推理小説のような題です。足あとがどうしてそんなに雄弁なんでしょう。自分がたどった足跡は何を物語るのでしょう。 (1) 今日の最初に、「私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので……

雄弁な足あと

09年7月19日(日) 朝10時45分-12時頃 聖 書 フィリピの信徒への手紙2章19-24節 説 教 「 雄弁な足あと 」 牧師 上垣 勝 会 場 板橋区氷川町47-3 板橋大山教会 ・三田線「板橋区役所前」から徒歩分 ・東武東上線「大山」駅から徒歩7…

聴くこと、応答すること (下)

ヨハネ5章19-30節 (3) イエスは25節で、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と言われました。 死者がどうして声が聞けるのかと思いますが、比喩的に語っていらっしゃるので…

聴くこと、応答すること (上)

ヨハネ5章19-30節 (1) 自由と束縛は互いに対立します。誰かに従ったり、規則を守らなければならないのは疲れます。この一年で時代が急に変わりましたが、暫らく前はサラリーマンが脱サラしたり、青年たちがフリーターになったりするのが流行りまし…

渇く人は使命を持つ (下)

ヨハネ7章37-39節 (3) テゼ共同体の歌に、「命の水を求め、夜の闇を急ぐ。渇きこそが私たちを導き、前進させる」という歌があります。ソーニャの渇きはそうでした。その渇きは、「渇いている者は私の所に来て飲みなさい」と言われたお方の所に行っ…

渇く人は使命を持つ (上)

ヨハネ7章37-39節 (1) イエスは、仮庵祭(かりいおのまつり)が最も盛大に祝われる終わりの日に、神殿の境内で立ち上がって、「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」と、大声で言われたとありました。 イスラエルの仮庵祭は秋の果物…

突きぬけた喜び (下)

マタイ6章1-4節 (2) イエス様は今日の所で、面白い言い方をされました。「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」右手が行なうことを、無論左手は知っていますよ。違います?もし、左右の手の連絡がうまく取れていないな…

突きぬけた喜び (上)

マタイ6章1-4節 (1) 今日の所に、「偽善者」という言葉が出てきました。「施しをする時には、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」と、イエスは言われました。 偽善者というのは、偽り…

板橋  明日の礼拝

09年6月28日(日) 朝10時45分-12時頃 聖 書 マタイによる福音書6章1-4節 説 教 「 突きぬけた喜び 」 牧師 上垣 勝 会 場 板橋区氷川町47-3 板橋大山教会 駐 車 場 日曜日は、何台も止めれる無料駐車場があります。 ・神様のことを知り…

不安の深淵を埋めるもの (下)

フィリピ2章17-18節 (4) 誤解がないようにお願いしたいのですが、パウロは殉教を勧めたり、美化しているのではありません。美談にしているのではありません。また、私はそういうことを述べようとしているのではありません。 そうでなくて、ここが大…

不安の深淵を埋めるもの (上)

フィリピ2章17-18節 (1) 前回ご一緒に学びましたが、2章12節からは、キリスト者は、また人間は世にあってどのように生きるべきかが書かれていました。それは、「神の子として、世にあって星のように輝」いて生きることと言っていいでしょう。心配…