宦官の喜び

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                                                 宦官(かんがん)の喜び

                                                 使徒言行録8章26‐40節

                                 (1)

  ステファノの殉教後、教会への大迫害が起りました。ところが迫害で難民となって逃げた人たちは、行く先々でキリストの福音を宣べ伝えて、キリスト教が先ずサマリア人に広まりました。サマリアでは、人々をペテンにかけて名声を得ていた魔術師シモンが、他の人たちが信仰を持つのを見て洗礼を受けますが、やがて形ばかりのキリスト教徒から本物のキリスト教徒になって行きます。

  元はエルサレム教会の食事係りとして選ばれたフィリポも、この伝道に率先して加わって彼を導きましたが、今日の所に進むと、主の天使が彼に、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言うと、フィリポはすぐ出かけて行ったというのです。

  すぐやる人がすべてを手に入れるなどと言われ、そんな題の本が出ています。10秒で行動に移す。すると人生を変えられるというのです。単純な人生観ですが、フィリポはどっちかというと、そういう単純さを備えた人だったかも知れません。彼は神から示しを受けるとすぐに行動に移す人で、そこに爽やかな信仰と人柄が滲み出ています。色々理屈をつけてやめたり、グズグズしないのです。

  すると、折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていた財務長官、エチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰国途中でした。むろん今のように飛行機ではありません。のろい馬車の5千kmの旅です。

  エチオピアは、エジプトのかなたアフリカの北東部にある国です。この国はシバの女王の国と言われ、4千年以上の歴史を持つ世界最古の王国として有名です。ソロモンとシバの女王の関係から、この国にユダヤ教が入ったようです。しかし、今、読んだ宦官が帰国後、キリスト教を伝えたのです。エチオピアは4世紀にはキリスト教国になっています。4世紀と言えば聖徳太子より300年程前のことです。この宦官の伝道が営々と引き継がれたのでしょう。

  カンダケは人名でなく、エチオピアの女王は「カンダケ」と呼ばれます。そのカンダケの高官で、女王の信頼あつく、全財産を管理する財務長官が、礼拝から帰国途中だったのです。

  彼はユダヤ教の信仰を持っていたのでしょう。女王のお許しを得て長い休暇を頂き、はるばるエルサレムに巡礼に来たのです。彼には、未だ解決されざる人生の苦難の問題が胸に詰まっていて、その苦しみと魂の渇きを何とか解消したいと、安らぎを求めて、はるばる危険を冒してやって来たに違いありません。皆さんの中に、なかなか解決できない問題で苦しんでいる方があるなら、やはり魂の渇きを覚えておられるでしょう。

  女王の全財産であって、国王の全財産ではないにしても、莫大な財産です。この管理は国の重臣の責任で、優れた経済観念を持ち、法律にも広く通じ、財産を増やす術にもたけた人物でなければなりません。経済だけでなく、女王の信頼の厚い相談役でもあった筈です。

  だが宦官です。たとえ王家の高官という高い地位にあり、高収入を得ても、宦官ほど屈辱的な人生はなく、子孫に財宝を残したり、跡継ぎの楽しみもなく、一般的に女性から男性として相手にされません。あれこれ考えれば、心休まらず、人生の不条理に魂の激しい渇きを覚えたのは当然です。

  宦官。ここに人類の深刻な問題があります。人間とは何者かの問題が凝縮されています。

  今は科学が進んでバースコントロールが進んで、問題の深刻さが見え難くなっていますが、人間は個人的にも社会的にも最もコントロールし難いのは性の問題です。性は子ども時代やかなり高齢になれば、コントロールできても、青年前期の10代から60代まで、個人の体と心の中で暴れまくるのが性です。女性はよく分かりませんが、男性はそうです。

  聖書は、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とヤコブ書で語ります。「どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火だ」とも言います。ほぼ同様に、性を制するのは難しいことです。性が暴走すると社会秩序が乱れ、家庭も崩壊しますが、あちこちで今も暴走する姿が見えます。

  宦官というのは、女王や大奥に仕える男性です。女官たちも多数仕えていますが、男性でなければ務まらない部分を男性の高官が、去勢され、男性の機能を失わされて仕えさせられるのです。去勢せずに、そのままだと何が起こるか分からないという、人間への不信が宦官の制度を作らせたのでしょう。女王との間で起こるかも知れません。他の女官たちとの間で起こるかも知れません。それで睾丸を切り取られたのです。実に屈辱的です。

  この宦官は屈辱にどうしても堪え得ない、魂の怒りのようなものが沸騰することがあって、心が鎮まらなかったのではないでしょうか。

  これは現代の問題でもあります。旧優生保護法の下で、多くの障碍者が断種させられました。不良な子孫の出生を予防するという名目で、去勢を強制させられ、裁判になっています。国が強制的に性のコントロールをしたのです。

  更に脱線しますと、妊娠中絶手術は親の様々な事情があってなされます。母体保護という名目もあり、まだうまく育てられない、育てられる経済状態にないなど、大人側の理屈があります。しかし宿った子供側からすれば、彼らは沈黙していますが、大人側の事情で生まれる権利を剥奪されることにならないかという事です。殺人に近く、生まれて来ようとする魂への冒涜にならないかという事です。絶対悪とは言いませんが、「おろせばいい」と簡単に言ってのけるのには、疑問が残ります。何しろ日本で年間17万から18万人が中絶手術を受けます。一種のホロコーストとも言えます。10年で170万から180万人です。宦官という非人間的な制度を考えると、障碍者ハンセン病の人たちに強制された断種の問題を始め、妊娠中絶の問題など、人間の暗い闇の問題にまで及んでいきます。

                                 (2)

  さて、エチオピアの高官は、帰国途中、馬車に乗ってイザヤ書を読んでいました。すると、聖霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言ったというのです。彼はここでもグズグズせず、直ちに走り寄っています。すると、馬車の中からイザヤ書を朗読している声が聞こえたのです。そこで、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねると、宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言って、馬車に乗るようにフィリポを招いたのです。

  彼が朗読していたのは、イザヤ書53章7、8節でした。今の聖書と若干違いますが、ほぼ同じです。「彼は、羊のように屠(ほふ)り場に引かれて行った。―屠場、屠殺場のことです―。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

  高官は読みながら、自分こそ「羊のように屠り場に引かれて行」く人生を送っていると思っていたでしょう。「毛を刈る者の前で黙して口を開かない小羊」とは、自分のことだと思って、わが身を顧みたでしょう。自分は身分の高い王家の高官ですが、人々の心の中では、「卑しめられ」、軽蔑されていると分かっています。誰が、この運命に正当な裁きをしてくれるのか。「誰が、私の子孫について語れるだろう。」このように自分の身の上と絡ませて読めば、自分も口を開かず黙々と女王の命に服し、外面的には不幸を少しも嘆かず、不満を言わず生きている訳で、いったい誰が正しく裁いてくれるのかと、身につまされる思いでしょう。

  繰り返しますが、運命の手によって、自分の人生が自由にならず、勝手に首に縄をつけられて引っ張リ回されている身である。死に向かって、屠られるために生きていると思うと、やり切れない訳です。

  いずれにせよ、イザヤ書53章は自分と深い関係があるような気がして読んだでしょう。しかし預言者は誰について語っているのか、預言者自身の事なのか、他の誰かか。分かるようで分からないのです。

  それでフィリポに、「どうぞ教えて下さい。預言者は、誰のことを言っているのでしょうか。自分についてですか。誰か他の人についてですか」と尋ねたのです。

  すると、思い掛けない答えが帰って来ました。預言者イザヤは、自分のことでなく、やがて来られるイエスという方のことについて預言したと言ったのです。しかも、イエスは私たちの重荷や苦しみ、十字架を、そして私たちの罪をも、自らの罪、十字架として担って下さり、私たちに代わって正当な裁判もなく裁かれ、取り去られました。彼には子どもはなく、誰もその子孫のことを語るものはない。罪も悪も汚れも罪過もないのに、暴虐な裁きによって取り去られた。だが、これが、重荷を負い、苦労し、運命の不条理に苦しむ私たちを救うためであったし、これが神の命に服して私たちと共に歩んで下さった30数年の生涯であったと、順々とフィリポは説いたのです。

  フィリポの話に引き込まれて聞くうちに、彼は、この方は私のため、私たちのために代わって、卑しめられて取り去られたのだと知って、自分のような慰めなき者のことを覚えて、この方が十字架に死んで下さったことを思って、次第に慰められ、絵も言えぬ平和が与えられるのを感じたのです。まさに彼はキリストの喜ばしいおとずれ、福音を聞いたのです。

                                 (3)

  彼は暫くして、「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と言って車を止めさせ、2人は水の中に入って、フィリポは宦官に洗礼を授けたのです。

  私はここで軽い驚きを覚えます。フィリポは、牧師でも12使徒でもありません。エルサレム教会の食事係の1人として選ばれたのであって、現代の牧師のように按手礼など受けていません。だが洗礼を行ないました。初代教会は、聖霊に導かれて非常に自由です。天真爛漫です。教会の規則などという小難しいものはなく、大胆に洗礼を授け、あっけらかんとして活動しています。ですからきっと、聖餐式も洗礼を受けた者しか受けてはならないとか、正教師以外は執り行えないなどという決まりも、制限もなかったでしょう。神の聖霊の働くまま、自由に、大らかに、喜びをもってなされていたに違いありません。

  そういうフィリポから洗礼を受けて、宦官は喜びに溢れたのです。その後、フィリポが急に見えなくなり、フィリポとの洗礼後の親しい喜びの交わりを経験することがなかったに拘わらず、喜びに溢れて帰国の旅を続けたのです。彼は洗礼で、イエス・キリストに直に出会ったのでしょう。彼の根源的な所において出会った。キリストから慰めを頂いた。その喜びは誰も奪うことが出来ない類の大切なものだったでしょう。

  彼が無事帰国し、母国で福音を伝え始めたというのは確かにあり得たことです。もはや、自分の子孫を見なくてもよくなったのです。キリストの信仰を持つ人たち。自分と同じ生き方、信仰の子どもたちを持てばいいのです。彼らこそ真の財産、精神的な財産を継いでくれる者、莫大な自分の信仰の遺産の継承者だと知ったからです。今は高齢化社会で遺産の問題があちこちで言われます。だが実の子どもたちが、親の一番大事にしている願いをもってそれを使ってくれるかというと、とんでもない。必ずしもそうでないのです。だが、彼は本当に信頼できる人たちに自分の遺産を継承できたでしょう。

  不妊で悩む方々が多くいます。10年に近い治療で500万円かけたが駄目だったとか、色々あります。そんなことに真の価値があるのでしょうか。それは実はゴミでないか。いや、すみません。ちょっと言い過ぎました。でも、それから解放されればゴミです。遺伝子を後世に残せなくても、精神的な遺産を後世に残すことが出来れば、その方が価値が高いのではないでしょか。宦官はそれを悟ったのです。だから吹っ切れた。

  教会学校というのは、そういう貴重な遺産を後世に伝える大切な意味を持っています。経済的な財産でなく、精神的な、魂の一番大事な財産を、遺伝子のつながりのない次代にも伝えたいのが教師です。それに与れるのは、私たちの喜びです。

  洗礼を授けると、フィリポはサッとどこかへ連れ去られました。洗礼を受けて親しい交わりが出来ると思っていたのに、神のみ心はそうではなかったのです。イエス・キリストとの交わりが出来れば十分なのです。人との交わりがあるに越したことはありません。しかしそれがなくても、十分支えられて行くのです。宦官がそうです。彼は喜びに溢れて旅を続け、母国に帰ってからも、喜びに溢れた人生の旅を、晩年まで続けたのは想像に難くありません。

  宦官の喜びは、福音の本当の喜びでした。このような喜びを私たちも頂きたいと思います。

  最後に、イザヤ書56章3節以下をご覧ください。彼は先程は馬車の中で53章を読んでいましたが、旅を続ける中で56章も読んだでしょう。こう語っています。「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。」彼は異邦人です。だが異邦人もユダヤ人ももはや区別はないと言うのです。そして次の4節、「宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」あなたはもはや枯れ木ではないのです。彼はキリストと出会った気づいた筈です。キリストを信じる中で、多くの息子や娘を持ち、兄弟姉妹、家族を持って暮らしていけると、彼は気づいたのです。肉親よりもっと広がりのある、深みもある、大きな家族が与えられたのです。

      (完)

                                            2019年6月16日

                                            板橋大山教会  上垣勝

魔術師からキリスト者に

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                                                 魔術師からキリスト者

                                                 使徒言行録8章9‐25節

                                (1)

  今日はペンテコステ聖霊降臨日です。2千年前のこの日、弟子たち一人一人に聖霊が降って、ユダヤ人を恐れて息を潜めていた弟子たちが街頭に出て福音を語り始め、教会が誕生して行きました。聖霊は弟子たちを新しく造り変え、勇気を授け、信仰と愛と希望をもって生かして行ったのです。

  その後、ステファノの殉教がきっかけでキリスト教に対し大迫害が起こり、使徒たちを除いて、数百人から数千人がユダヤサマリアの町々に逃げ、逃げながらそれらの町々で福音を語って巡り歩いたのです。

  大迫害に遭ってエルサレムの外に出てみると、そこには悲しむ人々、苦労する人々が大勢いることを改めて発見し、逃げながら、随所で福音を語って巡り歩くことになったのです。前に申しましたように、各地で、福音を必要とする民衆の発見です。福音の故に迫害を受けて苦しむ中で苦しむ人たちに出会い、悲しみを知る中で悲しむ人たちに出会い、試練をなめる中で試練をなめる人たちに出会った。そしてそういう人の友になった。そして、聞かれればその方々にキリストの慰めの福音、平和の福音、復活の福音を語ったのです。

  現在も同じです。高齢のため、仕事のため、また何かの不幸のために環境が変わり、変えざるを得ない場合がありますが、その場その場で、神は私たちを思いがけない仕方でお用いになります。環境の大きな変化で大変になっても、それを不幸と決めつけず、そこに恵みが埋もれていると信じて負って行けば、思わぬ発見があるでしょう。そういうことをこの迫害から学びます。

  さて、サマリアに降った中にフィリポがいました。彼は殉教の死を遂げたステファノと共に、初代教会の給仕係に選ばれた7人の1人ですが、彼もステファノに触発されて大胆に福音を宣べ伝える伝道者になり、ユダヤを去り、サマリアの町に行ってキリストを宣べ伝えたのです。

  サマリア人ユダヤ人は互いに敵対し、いがみ合う民族同士ですから、この伝道は当時驚くべきことでした。ところが、サマリア人たちが福音を受け入れて洗礼を受けるという事が起こったのです。キリストの福音が民族の隔ての壁を越え、民族和解の福音として広がり始めたのです。

  そのサマリアにいた魔術師シモンという男のことが、9節以下で語られます。「この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。」

  魔術とあるのは、人の目をだます巧妙な仕掛けや妖術などを指すものです。民衆の前で派手に不思議な業を行なって感激させ、自分でも偉大な人物と称して、一般人から名士に至るまで、「彼は大能の神の力を持っている」、神に等しい人だと絶賛され、魔術に心を奪われる人たちから相当の金儲けをしていたのでしょう。いずれにせよ、シモンは魔術によってサマリア人たちから注目される人物でした。

  ところが、フィリポがキリストの福音を説いて、男も女も洗礼を受けたのを知り、「シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」

  彼は人々を驚かし、賞賛されて注目を浴びていましたが、キリスト者のフィリポは自分に注目を集めるのでなく、復活のキリストを人々に説き、「ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」と一途にキリストを説いて人々に奉仕することで、素晴らしい事が起こるのを見て驚いていたのです。シモンは絶賛されて鼻高々となっていた。ところがキリスト者のフィリポは全く違う訳です。自分の利を求めず、自分の名も求めない。ところが、不思議な愛の業や、人々に希望を与える業がなされて行く。そのことを驚きつつ見ていたということです。

  フィリポは自分にないものを持っている。何だろう。出来れば自分も彼と同じ力が欲しいと思い、洗礼を受けて、いつもフィリポの後を付け回したのです。

                               (2)

  ところが、大迫害の後なのに、サマリア人が福音を受け入れるに至ったと知って、ペトロとヨハネエルサレムから遣わされて来ました。だがサマリアの信仰者たちは洗礼を受けたが、まだ神の霊である聖霊を受けていなかったので、彼らにも聖霊が与えられるようにと祈り、「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」というのです。

  シモンはこの不思議な現象に酷く興奮したのでしょう。長年魔術で人を驚かして来たが、こんな事は生まれて初めて見る光景だったのです。ぜひ自分も、人々の頭に手を置けば、その人に聖霊が降るようになりたいと切に願ったのです。彼は洗礼を受けていましたが、その信仰は、いわば徴や奇跡を信じる信仰であり、キリストの福音は付け足しだったのでしょう。ですから、どうすればこんな不思議が起こるのか、その秘密を知り、自分も出来るようになりたいと思ったのです。

  そこでペトロに金を差し出し、「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と頼んだ。

  魔術や奇術は何らかのトリックがあります。こういうヤクザな世界では、その手口を弟子入りして師匠から学んだり、師匠から盗んだり、時には大金を出して買ったり、そこに自分独自のものを加えて演じるわけですが、彼は金で聖霊を授ける術も買えると思ったのです。信仰の奥義というのも一種のトリックだと、もしかしたらペテンだと、金で売買できるものだと考えていたのかも知れません。

  それでかなりの金を持って来て買おうとした。ところが、その金を見るや、ペトロの怒りが爆発したのです。「この金は、お前と一緒に滅びてしまえ。神の賜物を金で手に入れられると思っているのか。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれない。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」

  前の口語訳は、「お前には、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、私に分かっている」でした。この言葉は、口語聖書時代には、私たちの心を強く刺す言葉で、「洗礼は受けていても、君にはまだ苦い胆汁がある」と叱責されているような気がしました。私にとってこの言葉は長く心に留まりました。

  ペトロはシモンの信仰に問題を感じ、厳しく叱責したのです。信仰の奥義を金で得られると考える彼の腹黒い俗物性です。そのような信仰は偽り以外の何物でもありません。「お前には、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、私に分かっている。」えらい剣幕で叱られた。

  ただペトロの叱責には、厳しさの奥に隠れて優しさがあります。「だからこの悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心に抱いたことが、赦されるかも知れない」とあります。むろんその赦しは、真剣な悔い改めと祈りなしには決して与えられないという真実な思いが伴って、彼のことを思い遣る温かい心が感じられます。

  「腹黒い者」とか「苦い胆汁」という言葉は、ニガヨモギのような苦い悪意という意味です。「悪の縄目」の方は、悪のとりこになっているという事です。折角クリスチャンになったのに、まだニガヨモギのような悪意が腹の底にあり、まだ悪のとりこになって足を洗っていないという事です。これは、シモンが魔術や呪術やえせ宗教から足を洗っていない姿を指摘した言葉でしょう。

  人間というのは、真(まこと)の神を知らずに、神に抵抗して生きている間は、あるいはうわべは信じているが腹の底では神を舐めて、その分どうしても自分自身に頼ろうとします。シモンが魔術に染まっていたのは、不安だったからでしょう。しかし魔術に頼っても、本人はそれがトリックだと手の内を知っていますから不安は解消しません。だから一層魔術にしがみつき、「これはトリックではない」と一層強く言い張るのです。それを厳しい叱責でペトロに見抜かれ、彼はハタと気づいたのです。それが、「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください」です。

                                 (3)

  この個所の中心は、24節のシモンの答えだと思います。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」

  彼はこの時、初めてキリストの十字架やその復活を、自分自身や自分の生き方との関係で考えたのです。自分のような者のために十字架で死んで下さったというイエスの愛が胸に迫って来た。今、彼は、信仰も人から称賛される何ものかだとか、得をする何かというのでなく、ましてや魔術のように人々を騙すトリックの一種と考えるのをやめて、謙虚に神のもとに自分を置こうと、主に執り成しの祈りを求め、主に祈って下さいと願ったのです。

  祈ってもらって、彼は初めて平安な思いになったでしょう。キリストのもとに自分を置いた時に、神の清い霊が降ったのです。誰かに聖霊を降らせるというようなことより格段に大事な、自分自身の上に神の癒しの霊、恵みの霊を頂いた。聖霊が降って謙遜にさせられ、平和を得たのです。ご利益信仰から足を洗ったでしょう。

  私が今、24節のシモンの答えがこの個所の中心だと申しましたが、次のような事です。もし今日の個所が、魔術で人心を惑わして来たシモンへの一方的な非難や批判だけなら、この個所は魔術者たちを単に物笑いにしたり、白い目で見る材料にしているだけでしょう。私自身はこれ迄、シモンのような人間への批判としてこの個所を読んで来ました。

  だが今は少し違います。なぜかと言えば、この時、彼自身が悟ったのです。自分にはニガヨモギのような苦い胆汁や悪意があり、腹黒さや悪のとりこになっている事に甚(いた)く気づかされて、「私はこんな愚かな人間でした、そこまで最低の卑しい存在でした。しかし今、そういう暗い、暗黒の谷底から主を見上げ、主の赦しを授けられて感謝いたします。このような存在をも心にかけ、助け出して下さる方。イエスこそ偉大なる方、尊ばれるべき方、私は一切の魔術を排し、ペテンを排し、このお方の僕として生きたいと思います。」こう語ってキリストの僕として生きて行くなら、彼のかつての腹黒さも悪の縄目に縛られていたことも、ペテンに生きていたことさえ大いに用いられて、神の栄光が明らかにされるものとなったでしょう。その決意が24節です。彼は福音の前に砕かれて身を低くしたのです。彼はこうして救い出されたのです。

  何ら躓きや欠点のない人より、彼は人生の苦さや渋さを知る、味のある信仰者として生きることになったでしょう。憑き物が落ちたかのように、魔術師シモンからキリスト者シモンになって、このサマリアの町で暮らしたでしょう。

  彼もイエスに愛されているのです。彼も神の恵みの選びから落ちていません。彼の腹黒さも、悪意も、名誉欲や出世欲も、彼の欲深い心の毒も、キリストの霊は彼の中からそれらをえぐり出し、吸い取り、神の執り成しを求める信仰者に変えて行った。このこと以上に、神に栄光を帰し得ることがあるでしょうか。

  こんな人間はダメというのでなく、神は石ころからでもアブラハムの子孫を創り出されるのです。聖霊は人々を新しく創り出す創造の霊です。天地創造と同じ力で、人を新しく創造します。

  今日はペンテコステですが、主の霊は2千年前も今日の私たちにも、同じように降って下さるのです。私たちはこの聖霊を祈り求めて生きたいと思います。

  神は迷い出た一匹の羊を探し出すために来て下さいました。イエスは健康な人や正しい人でなく、罪人を招くためにおいで下さったのです。

      (完)

                                            2019年6月9日

                                            板橋大山教会  上垣勝

あなたはどこにいるのか

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                                                  創世記3章1‐8節

                                 (1)

  今日の話の題は、「蛇の誘惑」とありました。創世記11章までは、童話かおとぎ話のような話を通して、大事な何かを言おうとしているのです。蛇がおしゃべりできるはずはないし、神様が園の中を歩かれる音が聞こえたなんておかしいです。でも、この話を通して言おうとしているのは、ウソじゃない、本当のことです。しかも、何か非常に深い本当の事を言おうととしているのです。

  「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」「賢い」ってどんなことでしょう。頭が良いことですか、すらすら算数の問題が解けたり、百人一首がすぐ覚えられる。そうですね。

でもここで言われている、「賢い」というのはズル賢い事なんです。悪賢いこと。どんな風にズル賢いのでしょう。

  蛇はこう女に言いました。女というのはアダムの奥さん、エバさんのことです。蛇はエバさんに、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」これってどこがズル賢いですか。

  「どの木からも食べてもいけない、などと。」「などと」という言葉を入れている。「園のどの木からも食べてはいけないと神は言われたのか」だと、神は悪い人だとは言っていません。しかし、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言ったんだ。

  「などと」という言葉を加えることで、神様は本当にそんな酷いことを言ったんですか。神様ってとんでもない方ね。意地悪ね。それって、おかしいんじゃないと思わせて、神様からエバさんを引き離そうとしているのです。

  蛇を見たことがありますか。動物園で見たの?東京では余り家の付近で見ませんね。蛇は、黙ってそっと忍び寄って来ます。小さな頭がちょっと隙間に入れば、太い胴体もそこから入って来ます。

  前にいた教会に幼稚園がありました。100人程の子どもたちが通って来ました。その教会幼稚園で鳥かごに入れてカナリアを飼っていました。もの凄くきれいな声で囀るのです。ところがある朝幼稚園に行くと、シンとしているのです。静かです。まだカナリアさんは寝ているのかなと思って近づくと、何と鳥かごの中に蛇が居て、カナリアの羽があちこち散らばって、カナリアの姿がありません。蛇が籠の細い隙間から入ってカナリアを食べたのです。でもすっかりお腹が大きくなって、入って来た隙間から出れなくなっていたのです。

  今私がお話しているのは、ちょっとの隙間があると蛇は入って来るということです。蛇はスキがあり、油断すると入って来るのです。今、エバさんの心に隙間があって、そこからいつの間にか入って来て、親しそうにエバさんのことを心配しているかのように話しかけたのです。

  するとエバさんは蛇に言いました。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

  エバさんは、蛇が親しそうに来て、味方になって親切に忠告してくれるものだから、気持ちがゆるんで、うっかり大げさに言っちゃった訳です。「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」親切そうな蛇の気を引こうとしたのでしょうね。

  神様は、食べてはいけないと言われたが、触れてはいけない、触っちゃいけないとは言われなかったのに、ちょっぴり付け足したのです。

  それと、神様が言われたのは、アダムさんでした。エバさんはアダムさんから聞いただけです。でも、自分が聞いたかのように言っちゃった。私たちって、ちょっとだけごまかすことがあります。ちょっとだけごまかして得しようとしたり、得意になろうとします。

  もし蛇がアダムさんに聞けば、アダムさんは正しい答えをして話はそれで終わったでしょう。だから、蛇はアダムの奥さん、エバさんに聞いたのです。エバさんは、自分は何でも知っていると知ったかぶりをしたかった。心にスキがあったのです。「食べてもいけない、触れてもいけない。死んではいけないから」と事実を曲げて言っちゃった。

  もうここで蛇の首が籠の中に入っています。 すると蛇はすぐ、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言ったんだ。

  神様はズルイって言っているのです。園の中央の木の実を食べれば、あなた方人間が神のようになることを、ご存じなのです。神のようになられると神様が困る。それを知っているから禁止されたのですと言ったのです。

  ここで、蛇は何をしているのでしょう。エバさんを神様から引き離そうとしている。神様との仲を裂こうとしている。

  こう言われて、もう一度よく木の実を見ると、前より一層おいしそうに見えたし、賢くなるように輝いて思えたのです。そこで、食べたいと思った。そう思うともうよだれが出て来て、欲しくって仕方がありません。うずうずして、止めようとしても体が木の実の方に引き付けられて行きます。

  そこで手を伸ばしてちょっとだけ触った。ところが触っても何も起こりません。エッ!何も起こらない。大丈夫なんだ。蛇さんが言った通りなのかも知れない。

  それで真っ赤に熟れた木の実を一つ取ってかじったのです。でも死ななかったのです。でも神の命令を破ったから怖くなりました。それで慌てて、一緒にいたアダムさんにも渡したので、アダムさんも食べたのです。1人だと恐ろしかったが、2人だと幾分か安心でした。アダムさんの方はなぜ食べたのでしょう。「自分は食べない」と言ったら、エバさんに嫌われると思ったからです。いつも味方でいたかった。ケンカをしたくなかった。本当はケンカをしなければならない時はケンカをすべきなのですが、エバさんの魅力に負けたのです。こうしてアダムさんもエバさんも、神様に背いたのです。神様の命令を破ってしまったのです。

  こうして蛇は、まんまとエバさんもアダムさんも神様から引き離したのです。神様との仲を裂いた。2人は神様から隠れざるを得ません。

  この蛇はサタンだと言われています。サタンは、私たち人間と神の仲を裂こうとしたのです。そして人間と人間の仲も裂くのです。神様から私たちを遠く引き離したのです。

  しかし私たちはどんなに神様から引き離されても、イエス様は私たちをもう一度神様に近づけて下さり、神様から愛されるようにして下さるのです。そのためにイエス様はこの世に来て下さったのです。皆さんへの話はこれでおしまいです。

                                 (2)

  さて、アダムとエバは木の実を取って食べたのです。すると、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」というのです。いわゆるパンツの起源と言われる個所です。

  2人の目が開くと、神のようになったのでなく、それは蛇のごまかしで、眼が開いて善悪を知った結果、自分の裸の姿を知ったのです。これには2つの意味があります。

  1つは、自分は裸だ、何も持たない存在だ。一文無しだ。哀れな自分の姿を知ったという事です。確かにもしすべての虚飾を排して自分の姿を顧みれば、人間の本来の姿は何も持たない者です。持っていると思っていても、ほぼ何も役立たないものばかりです。頼りにしていたものも最後は頼りになりません。

  エデンとは楽しみ、喜び、楽園という意味でした。だが、今や喜びは去り、平和は失われ、不安に駆られ、哀れな自分の姿に戸惑ったのです。自分を恥じたのです。自分が受け入れられず、自分と和解できなくなったのです。

  青年たちが、初めは人間関係のもつれなどから、他人に傷つけられたり、思いがけず人を深く傷つけてしまったり、その結果、学校や職場が嫌になり、そんな自分を受け入れられずに落ち込んで、すっかり外出もできなくなり、人と会うのが怖くなる事があります。それが引き金で引き籠りが起こったりします。数か月ならまた復帰は出来ますが、長く何年と経てば社会の歯車と合わすことが困難になるという場合です。現在では精神科にかかったりします。しかしその根本的な解決は、人は誰しも裸だと知り何も持っていないことを知って愕然とするが、また自分の愚かさにも打ちのめされたりもしますが、それが人間というものの素の姿だと知ると、そこから救い出される可能性が生まれます。自分だけでなく人は本来誰でも裸だと知り、何も持っていないことを知って、そんな自分だけれどイエス様は愛しておられることを知る。決して捨てられないことを知る。そこから問題が解決されて行くことがあります。単に薬の服用だけではなかなか解決しません。

  もう一つの意味は、アダムとエバは目が開いて自分の素っ裸の姿を知って、恥ずかしさのあまり、「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」というのです。恥部をおおったのです。あるいは、都合の悪い所を隠そうとしたのです。

  しかし、聖書が告げるのは、人間がどんなにうまく隠そうとしても、隠し切れないという事です。それが「イチジクの葉を綴り合わせて」という言葉で示唆されています。イチジクの葉っぱは、最初は新鮮で大きくパリッと張っていて隠せるでしょう。だがやがて萎れます。しぼんで来ます。するとたとえ一旦は罪や恥部を隠し得ても、やがては見えるのです。人間のなすことは必ずボロが出て、足がつきます。大統領だろうが、首相だろうが、議員だろうが、次官だろうが、院長だろうが、庶民同様、皆イチジクで隠しているだけであってチョボチョボです。

  人間はイチジクの葉っぱで隠すしかできません。だが、そういう生き方をしていては必ず終わりが来ます。

                                 (3)

  さて、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。」涼しい夕風がさわやかに流れ始めた頃、園の中に衣擦れの音でしょうか、サンダルの音でしょうか、誰かが近づいてくる音が聞こえて来ました。すると、「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」と。

  神は、エバでなくまた2人でなく、アダムだけを呼ばれました。神はアダムに、園の中央の木から取って食べるなと命じられたからです。それでアダムの名を呼んで、「あなたはどこにいるのか」と尋ねられたのです。

  「あなたはどこにいるのか」という問いには、アダムへの心配と愛があります。あなたは神の顔を避けているが、今、どんな状態にあるのですか。どんなところで悩み、苦労し、何を考え、何を恐れているのですか。あなたはなぜそんな所で、息を潜め、私を避けて隠れているのですかという問いです。

  私たちにも、あなたは今、どこで悩んでいるのですか、何に躓き困っているのですかと、神を避けている私たちを案じて尋ねておられるのです。

  そしてこの問いは、あなたは、神の顔を避けて生きていますが、その生き方では、次々と試練が起こり、悩みが尽きず、風に吹き飛ばされる木の葉のようになってしまうでしょう。あなたか神の作られたものとして、元どおり、私を仰いで生きなさい。そうすれば、正しい進路を見つけて進むことが出来ますと、彼を案ずる心が含まれています。むろんこの愛はエバへの愛でもあります。

  「あなたはどこにいるのか。」私の顔を避けず、私の顔を仰いで生きなさいという事です。たとえ一時的に、誘惑の手に落ちたにしても、今、再び、私の顔を仰げばいいと言われるのです。私から身を隠さず、私から離れず、私を受け入れて生きなさい。

  人は誰でも、神を仰ぐ時には、一抹の不安が起こります。裸の姿を見られて、厳しく裁かれはすまいか。現在だけでなく、過去の生活まですべてが神の光に照らされてしまい、厳しい事が起こるのでないかという不安です。しかし神は愛です。愛の内に留まる人は、神の内に留まり、神もその人の内に留まって下さるのです。愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを取り除くからです。

  神には赦しがあるので人に尊ばれるのです。あなたが神を仰ぐ時、再び新しい一歩を歩み始め得るでしょう。神の顔を避けてはいけません。

  「あなたはどこにいるのか。」神は、神を避けて闇の中に失われようとする人を探しておられるのです。「あなたはどこにいるのか。」これは、神の愛の捜索と呼んでもいいでしょう。人は山で道に迷って遭難するより、もっと頻繁に日常生活や社会の中で遭難しがちな者です。

                                 (4)

  主なる神が、「どこにいるのか」とアダムを呼ぶと、彼は、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と答えました。そこで神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われました。するとアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えた。主なる神は次に女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」こんな問答が書かれています。

  アダムはエバに責任転嫁をしました。それだけでなく、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と語って、神であるあなたこそこの女を連れて来られたのです。元々の責任はあなたにありますと、神にさえ責任転嫁します。次に神がエバに尋ねられると、彼女は、「蛇がだましたので、食べてしまいました」と蛇に責任転嫁したのです。

  このように2人とも他に責任転嫁し、他人や神に責任をなすり付けて生きようとするのです。私たちの罪は責任転嫁にあります。自分の非を告白しない。認めない。少しでも関係を見つけて責任転嫁する。それが的外れなのです。的外れとは罪のことです。そんなことをしてホッと一息つけても、自分の問題は少しも解決しません。

  しかし翻って、イエスは人間の罪の一切をご自分の責任として負うために来て下さったのです。全人類の罪をご自分にひっかぶって死んで下さったのです。

  イエスは新しいアダムだと言われます。古いアダムは死ななければなりません。責任転嫁して生きている古いアダムである自分が死に、責任転嫁をやめて自分の十字架を取ってイエスの従って行く、新しいアダムが、私たちの中に生まれて下さるでしょう。

  責任転嫁をやめない限り、新生活は始まりません。新しい一歩は始まらないのです。誰がどう言ったこう言ったとか、蛇が騙したので食べましたではなく、自分が神の命令に背いて食べてしまった。そのことを認める所から、私たちの新しい一歩が始まるのです。

        (完)

                                            2019年6月2日

                                            板橋大山教会  上垣勝

                                  ・

いずこにも光がある

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                                                  いずこにも光がある (下)

                                                  使徒言行録8章1‐4節

                                 (2)

  以上がこの個所のあらましですが、ここから先ず考えさせられるのは、1)彼らは迫害を受けて、いつかは復讐をしようと思わなかった事です。一切を神に委ね、神が必要とあれば、報いて下さると考えて復讐を念じなかっただけでなく、復讐するなと説いたでしょう。いかに迫害されても、主が、やがて必要とあれば報いて下さる。私たちでなく、裁くのは主だと考えた筈です。

  それは、十字架上のイエスの赦しの祈りから、またステファノの最期の赦しの祈りからも、十分想像できます。「汝の敵を愛せよ」の祈りが初代教会を貫いていたのです。

  また次のことも考えさせられます。2)信者たちは、ステファノがあんな発言をしたから、こんな大迫害が起こったとか、あそこまで言うべきでなかったとか、あれこれ上げ足を取らなかったことです。彼らは二心を持たず、ステファノに共感し、どこまでも彼を支えたのです。この辺の理解は私たちにとっても大事な姿勢です。教会が窮地に陥ったのは彼のせいだと言わなかったし、考えなかった。むしろ初代教会はステファノに励まされて進んだのです。

  次に、3)大迫害が起こりましたが、暫くするとその苦難が喜びに変わります。まるで将棋で、相手の陣地に歩でも他の駒でも入れば、裏返って成金と言って金と同じになりますが、迫害が転じて大いに躍進することになります。

  どう成金になるのか。エルサレムの外に出てみると、そこには悲しむ人々、苦労する人々が大勢いることを改めて発見し、逃げながら、随所で福音を語って巡り歩くことになったのです。福音を必要とする民衆の発見です。福音の故に迫害を受けて苦しむ中で苦しむ人たちに出会い、悲しみを知る中で悲しむ人たちに出会い、試練をなめる中で試練をなめる人たちに出会った。そしてそういう人の友になった。そして、聞かれればその方々にキリストの慰めの福音、平和の福音、復活の福音を語ったでしょう。

  人生において、私たちもある種の撤退や退避を余儀なくされることがあるかも知れません。しかしこれは主がそこへ遣わされた事かも知れません。いずこにも光があるのです。そこにも希望の主がおられるのです。

  迫害を受けて逃げ出した筈なのに、今、福音を告げ、人々を励ましながら巡り歩こうとは何と不思議な巡りあわせでしょう。エルサレムを出ても、福音に生かされて生きる時には、現実社会に何と多くの慰めを必要とする人たちがいるのだろうと再発見するのです。後退と思えることが躍進に繋がり、世界の舞台で用いられて行くのです。

  次の5節を考えてみてください。「フィリポはサマリアの町に入って福音を語った」とあります。ユダヤサマリアはこれまで敵対関係にあり、民族の壁が厚く、入ってもなかなか心を開いてもらえない地域です。それが迫害を受けて逃れる中で心を開いて福音を語り、彼らも心を開いて福音を聞いてくれる。いつの間にか厚い壁が越えられただけでなく、不思議な出会いが迫害のさなかに起こって行ったのです。

  私たちの試練も失敗も躓きも用いられるのです。試練、困難、迫害、失敗、色々なマイナスも神は用いて下さるのです。案ずるな。恐れるな。思い煩うなと、主は語られます。初代教会はこの迫害の経験から主の恵みの数々を多角的に知って行くのです。

  ステファノの殉教は、信仰の種、信仰の種子となって各地にばらまかれ、長い目で見れば世界各地に、美しい信仰の花を咲かせることになります。そして、更に時代が進めば、巨大なローマ帝国の舞台において、キリストの福音がいかに真価を発揮して行ったか知ることが出来ます。一言で言えば、キリストの福音は、またキリストの国は、その真理において、その深さにおいて、その愛と希望と真実において、ローマ帝国を遥かに超えていることの喜びの発見です。

  霊性という言葉がしばしば語られます。スピリチュアルという事です。ただ多くの人が見逃しているのは、霊性には、善の霊性と共に悪の霊性があることです。悪の霊性は暴力や憎悪を生み出し、敵意を煽ります。また人を惑わす霊性さえあります。迷う人たちを手玉に取るのです。しかし善の霊性は、愛と赦し、平和を作り出し、希望をもたらすのです。それはまことの神から来る真実な霊です。1世紀の後半から2世紀、3世紀にかけてのローマを見れば、いかにイエスの福音の登場が待たれていたか分かります。その最初の潮流のぶつかり合いと渦潮現象が、今日の個所に現れているのです。

  そうです。彼らは渦潮に揉(も)まれながら、いずこにも光があるという事を証ししたのです。

     (完)

                                            2019年5月26日

                                            板橋大山教会  上垣勝

 * ヤフーブログから引っ越し方法が示されませんので、それに先立って、暫くして他のブログに引っ越しする予定です。毎週のように長くブログをお読み下さった方々には励まされました。感謝です。引っ越しが完了すれば、引っ越し先をここに記載しますので、引き続きそちらにお訪ね下さればありがたく思います。

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  後日、ホームぺー作成の予定。

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日本に抵抗した人々

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                                                  いずこにも光がある (中)

                                                  使徒言行録8章1‐4節

                                 (1)

  サウロはやがてパウロと名乗るキリスト者になる人物ですが、この時はステファノの殺害に賛成していたのです。7章の最後で起こったステファノへの石打の刑。それはリンチでしたが、彼は大小の石を全身に浴びながら「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と祈り、最後に渾身の力を振り絞って跪き、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで、そのまま倒れ込んで永遠の眠りに就きました。サウロはその時、傍で、石打の刑に賛成して上着を置く者たちと実際に石打に加わる暴漢たちの上着の番をしていました。彼はステファノに石をぶつけたかどうかは分かりませんが、サウロは「殺害に賛成していた」とあります。この言葉は、無条件で賛成すること、もろ手を挙げての同意を指します。彼は、上着の番をしながら、「殺せ、殺せ、やっつけろ。生かしておくべきではない」と、叫んでいたでしょう。

  さて、先ほど辿りましたように、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤサマリアの地方に散って行った。」ステファノの処刑が引き金になり、一挙にエルサレム教会にユダヤ教の暴漢たちが集団で押し寄せ、情け容赦ない大迫害が巻き起こったのです。大迫害とあるのは、数の上でもそうでしょうが、非常にむごい、情け容赦のない、残虐な迫害です。誕生間もない、小さな信仰者の群れへの集中的な迫害で、書き留められていませんが、何人かの犠牲者も出たでしょう。

  すると、「使徒たちのほかは皆、ユダヤサマリアの地方に散って行った」のです。クリスチャンの実数は分かりませんが、数百人、数千人でしょうか、避難民となって即刻ユダヤの地方、サマリアの地方の田舎の町や村に逃げました。持てる荷物を持ち子どもを抱いて逃げる人、杖をついて逃げる人もいたでしょう。

  ただ危険を承知で、12使徒エルサレムに踏みとどまったのです。これは凄い事です。彼らはイエスの徹夜の祈りをもって選ばれた人たちですが、共に、イエスを見捨てて逃げたという脛に傷持つ弟子たちです。だが、今はどこにも逃げず、断固として十字架の主を仰いでエルサレムに踏みとどまったのです。殉教を覚悟していたでしょう。ステファノに続こうとしたのです。

  彼らだけではありません。「信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。」人々とあるのは男たちです。女性は真っ先に逃がしたでしょう。大変悲しむとは、胸を叩いて悲しむこと。韓国の人たちも胸を叩いてアイゴー、アイゴーと言って悲しみます。日本風に言えば、髪掻きむしって悲しむと言えばいいでしょうか。だが、ステファノの霊的な信仰、その霊性と品性、その働きに接した信仰深い男たちは大いに悲しみ、身に危険が及ぶに拘わらず、置き去りにされている遺体を引き取って葬ったのです。これだけでも大変勇気が要ります。すでに仲間たちはエルサレムを離れています。いつ自分らは襲撃されるか分かりません。

  では、いち早くエルサレムを飛び出した人たちを、彼らや聖書は批判や非難しているのでしょうか。そうではありません。彼らは「散って行った」のです。これはデアスポラという言葉です。彼らは迫害で散らされます。だが、神は人間の迫害をも逆手にとって彼らを世界に散らされたのです。エルサレムという狭い世界でなく、もっと広い世界で神が彼らを用いられるためです。

  用いられるために、更に大きな試練、厳しい試練が待ち構えているかも知れません。こうあります。「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」サウロは、エルサレムに残って隠れているキリスト者をシラミ潰しに探し出し、ひっ捕らえて牢に送り、教会に打撃を加えようとしたのです。キリスト者たちの間に大きな悲しみが起こりましたが、サウロは、この大迫害を絶好のチャンスと考えて、キリスト教徒を根絶しようと図ったのでしょう。引き出しとありますが、抵抗して嫌がるのを力ずくで引きずり出すことです。

  家に押し入って引きずり出すこの場面は、日本が戦前に朝鮮半島で行った朝鮮人への非道な強制連行を思い出させる場面です。日本での労働力になる男を見つけると、逃げるのを追いかけ、ひっ捕らえて、引きずってトラックの荷台に放り上げて、日本に強制連行しました。進んで日本に来る人たちもいましたが、逃げ回る人たちも多くいたのです。今、徴用工の裁判が韓国で起こっているのは、そういう背景があるからです。実は韓国にキリスト教徒が多いのは、日本が強権力を奮って植民地化し、日本軍の厳しい迫害に遭ったからで、これに抵抗する信仰に生きるキリスト者たちが多くいたからだと言われています。実際殉教を遂げたキリスト教徒たちが何人もいました。

  いずれにせよ、サウロは家から家を渡り歩いて、クリスチャンを捕らえては引きずって来て投獄した。「教会を荒らし」とあるように、彼の迫害は過激に進んで、キリストの体である教会、キリストご自身への迫害となって迫って行きます。

  ただ行き過ぎたこの過激さこそ、やがて彼が9章でキリストに捕まる伏線になり、やがては異邦人伝道として世界伝道が発展していく伏線にもなって行きます。神はあらかじめここに、福音の発展の伏線を置いておられたと見てもいいでしょう。

  この事は、4節の「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」という所にも見られます。彼らはディアスポラさせられてエルサレムから散らされて行きますが、迫害というこの試練が世界伝道に繋がるのです。

  散らされたキリスト者たちは単なる難民でありません。ディアスポラが用いられたのです。彼らは転んでも、信仰を持ってただでは起きなかったのです。どこにあっても復活の主がおられると信じ、いずこにも恵みの光が輝いていると信じて進んだ結果、世界にキリストの福音の広まるきっかけになります。

     (つづく)

                                            2019年5月26日

                                            板橋大山教会  上垣勝

 * ヤフーブログから引っ越し方法が示されませんので、それに先立って、暫くして他のブログに引っ越しする予定です。毎週のように長くブログをお読み下さった方々には励まされました。感謝です。引っ越しが完了すれば、引っ越し先をここに記載しますので、引き続きそちらにお訪ね下さればありがたく思います。

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潮流の衝突

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                                                  いずこにも光がある (上)

                                                  使徒言行録8章1‐4節

                                (序)

  皆さんはだいたい関東の方ですから、鳴門海峡の渦潮(うずしお)をご覧になった事はいらっしゃらないかも知れません。ああ、いらっしゃいますね。2つの潮の流れがぶつかる所では巨大な渦が発生します。鳴門海峡の渦潮は、月の引力と関係して、面白い地形のために満潮と干潮の二つの潮の流れが細い海峡でぶつかって巨大な渦が出来るのです。水中では竜巻のような渦が発生しています。

  最初から、聖書とは無縁と思えることを申し上げましたが、使徒言行録7章、8章、9章、特に今日の個所は、2つの大きな潮流がぶつかって渦潮のようなものが発生している個所です。

  1節は、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」とあります。激しいその潮の流れは更に、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり」という事になり、続いて「使徒たちのほかは皆、ユダヤサマリアの地方に散って行った」という結果が起こります。所が迫害のさなか、「信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ」のです。

  だが一方、サウロは、「家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」このように、ここに二つの流れが激しくぶつかっています。強い潮は、当然、迫害するユダヤ教の側、サウロの側です。

  ところが迫害のさなか、「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」というのです。

  まさに今日の所に、大きな渦潮が発生していると言えるでしょう。見るからに小さな小競り合いに見えます。しかしそうではないのです。このぶつかり合いは、世界の歴史をも巻き込み、パレスチナだけでなく、欧米世界だけでなく、アジアにもアフリカにも、2千年の全世界の歴史に影響を与えて行く巨大な渦巻きになって行くからです。そういう意味で、先ず渦潮の事を申しました。

     (つづく)

                                            2019年5月26日

                                            板橋大山教会  上垣勝

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19年 墓前礼拝


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                             19年5月墓前礼拝
                                              ヨハネ黙示録3章20節
                                              ヨブ記9章6、9、11節
                                              ヨブ記12章7‐10節



                                 (1)
  この礼拝は、ここに葬られた50人程の皆さんを覚えての墓前礼拝ですが、Aさんの納骨の辞も兼ねてお話いたします。

  今年も私たちは懐かしい方々の所に来て、まるで古里に戻ったような気がしないではありません。Bさん、Cさん、Eさん…と、懐かしい方々のお名前があり、最後に大山教会を開拓したドンのような大塩先生のお名前まであるので、ホッとするというか、安堵するというか、胸にこの人たちとの楽しい思い出が湧いてまいります。

  それぞれ祖父母や父母や妻や夫、肉親である方であり、ありし日は共に笑い、涙し、肝胆相照らし、語り合った友たちであり、時には人生と信仰の戦友のような方々です。

  そして今日また新たに、母であり、祖母であり、私たちの思い出深い友のお一人が、納骨されようとしています。Aさんとは、丁度21世紀を迎えた頃から、約20年間、板橋大山教会において信仰と友情を深くすることが出来、深く感謝を申し上げると共に、ご家族の悲しみを私たちもお分かちさせて頂きたいと思います

  Aさんは存在感のある方でした。そこにいるだけで安心できるというか、色々な事があっても、この方がいると、まあ、何とかなると安心できる存在でした。随分前に、教会のリフォームの工事を10月末に控えて、その年のバザーは出来ないのでないかと皆、躊躇していましたら、Aさんが立ち上がって片手を突き出し、「さあ、今年もやるぞ」とおっしゃって、一件落着したことがあります。仕切る人でありませんが、最後のとどめを刺すというか、結論はこうと言ってくれる存在でした。腹が座っていたのです。

  私はこの9か月、特別な恵みを頂きました。Aさんのお骨を仕事机の前に置いて、目と鼻の先で毎日「おはようございます」と対面しながら暮らすことが出来たからです。93年の人生を振り返ることは勝手には誰もできません。しかしこのお方が存在なさった深い意味を感謝して受けとめ、かけがえない人生をお送りになった事を、お骨というこの方の分身を、僅か1年弱でも近くにお置きして、黙想しつつ生活すること。それは特別な恵みの時でした。

  Aさんだけでなく、このお墓に入っている方々は皆、お骨を牧師の前に置くかどうかはともかくも、そのように教会によって受け止められ、覚えられ、やがてここに入られた方々です。

  キリスト教の弔いは、その方の人格、存在そのもの、その方の中核である魂を、こうした人格的出会いとして大事にすることです。それは会社、企業、営利、お金、経済、そんな価値観ではありません。人を利用する価値観とも異なります。それらは世界のごく一部分をなしている価値に過ぎません。神に創造された実際の世界はもっと大きく、深いものです。私たちが裸で来、裸で帰って行く世界は、もっともっと巨大で且つシンプル。4次元でなく、6次元でなく、10次元をも超えて、且つシンプルです。私たちが来た時の姿で、また行くのです。土に帰り、灰に帰り、チリに帰ります。労苦の結果を何一つ持って行くわけではありません。

  聖書は語ります。「神は大地を、その立つ所で揺り動かし、地の柱は揺らぐ。…神は北斗やオリオンを、スバルや南の星座を造られた。…神がそばを通られてもわたしは気づかず、過ぎ行かれてもそれと悟らない。」(ヨブ記9章)

  「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も、御手の内にあることを。」(ヨブ記12章)

  人類が生まれる前から、永遠から永遠まで実在して来た、その様な世界から、私たちはこの世界を見、奥村さんも、他の方々も、神と出会い、イエスと出会って、ご覧になっておられたのです。人間が世界の中心にいるのではありません。

  人生は旅です。永遠から永遠まで実在する世界にありながら、来たる所も、行先も知らないのです。しかし、永遠の古里を目指して、巡礼の旅をしているのです。

                                (2)
  Aさんが長く親しみ、座右の書にされた一冊の書、ハレスビー著「みことばの糧」は、召されて間もなく、お孫さんのFさんがこれらは教会で使うか処分して下さいと頂いたものの一冊で、誰も見る者がなく、私が記念として頂きました。

  その中から抜粋して読ませていただきます。……

          (完)


                                        2019年5月12日(日)
                                               午後2時30分




                                           板橋大山教会  上垣勝



  ヤフーの板橋大山教会ホームページは、2019年3月31日で終了しました。

  後日、ホームぺー作成の予定。

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