愛に命をかけた男 (下)


  
                                                
                                              フィリピ2章25-30節

  
                                 (2)
  パウロがここで述べていることは、エパフロディトは実に男らしい男だということだと言えるでしょうか。今述べましたように、瀕死の病でありながら自分より自分を送り出した教会のことを思いやり、心配をかけたことを心苦しく思う人です。またパウロの協力者として伝道にあたり、キリストの戦友また信仰の友として、パウロが投獄されてもそれを恥じず、恐れず、返って投獄が福音の前進に役立つように、パウロと共に働きました。

  フィリピからローマの獄中のパウロに贈り物を届けるというのは、大変な仕事です。贈り物というのはフィリピ教会を中心にマケドニアの諸教会から集めたかなりの金額の伝道資金だったと思います。マケドニアからエーゲ海を渡るのに約500キロ。コリントの東側の港に着いて、そこからコリントの西側の港まで行きイオニア海に乗り出し、それから地中海をローマまで行く船旅は、全行程2千キロか3千キロの危険な旅です。海上の難、町での難、盗賊の難、異邦人による難、同胞からの難など、色んな危険が待ち構えていたでしょう。一人ではなかったでしょうが、命がけの旅です。

  そこで、パウロは30節で、「私に奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」と書きました。

  エパフロディトがパウロに奉仕したのは、自分がパウロから特別目をかけられるためではありません。先程あったように、フィリピ教会の人たちに代わってパウロに尽くしたのです。一言で言えば、彼はキリストを愛するために、愛に命をかけた男でした。自分を誇るためではありません。ただ神の栄光のためです。そして、キリストを、命をかけて愛する男であったゆえに、キリストの業、具体的にはパウロに奉仕するという業に命をかけたのです。

  先月、太宰治のことに触れました。彼は聖書を実によく読んだ人です。内村鑑三の弟子の塚本虎二を尊敬してその月刊誌を購読していました。しかし彼はキリストを信じることができませんでした。だが隣人を愛そうとして、それができない自分に苦しみ、悩み、最後には人間失格を書いて自殺していきました。

  聖書から考えると、神を知り神を愛することなしに、隣人を愛することはできません。今日は聖餐式がありますが、キリストが私のために肉を裂き、血を流して下さったことをパンとぶどう酒を頂いて味わいます。このパンと杯がキリストのまことの身体である、まことの血であるとして頂き、イエスが自分のような者を真実をもって愛し、罪を贖って下さったことを感謝して受けます。この尊い愛を知って、隣人愛は起ります。キリストの愛を知らずに、倫理的に愛を追求しても、太宰のように偽善的な自分の姿が明らかになるだけです。それでは行き詰まります。

  ですから、神の愛が自分の一番の関心事になる時に、初めて隣人への愛が芽生えると言っていいでしょう。

  むろん神への愛を知らない人にも隣人愛はあります。思いやり深い人、人に尽くす人などもいます。広い愛の心をもって奉仕活動をしている人たちもあります。

  しかし、力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛するという事を持たない隣人愛は、最初に申しましたように、しばしば排他的になります。自分が、特別にその人を愛する人でなければなりません。間に、他の人が入って来るのは嫌です。ですから独占的です。競争的です。また押し付けにもなります。自分はこんなにしているのですから、自分の方を向いて欲しい。当然、支配的です。ですから、自分から目をそらすことや、興味が別の方に行くことを嫌います。すなわち、妬みます。そして自分を裏切ったとすれば、怒りが爆発します。ことによったら、何かの報復をせずにはおきません。愛憎無限とは、そのことです。

  これは自然的な、生まれつきの愛だからです。生まれつきの愛は当然こうなります。この愛はキリストによって清められる時に、砕かれアウフヘーベン止揚される時に澄んだものになるでしょう。

  エパフロディトはキリストの愛の業に生き、獄中の人であるパウロを具体的に愛して、瀕死の病気になるまで命をかけました。それは先程申しましたように、「神の愛が実際に自分の最大の関心事」であったからです。

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  「愛に命をかけた男」というと、命を振り絞り、前人未到の愛の絶壁を登りつめた偉大な男と聞こえます。そういう意味では、愛に命をおかけ下さったのはキリストだけです。先ず神が私たちを愛して下さった。そこに愛があります。愛はキリストから始まります。その愛に心打たれ、罪人である者が赦され、愛が芽生えます。それ以外からまことの愛は始まりません。

  そしてエパフロディトの愛は、「キリストの業に命をかけ」とあるように、キリストを源泉として、獄中のパウロを恐れることなく全力で支え愛したのです。「一隅を照らす。これ国宝」という言葉がありますが、彼は命をかけてキリストを愛し、一隅を照らしたのです。

  星野富弘さんの「花よりも小さく」という詩画集が暫らく前に出ました。題になった「花よりも小さく」のページを開くと、黄色のアワコガネギクの無数の小花が描かれていて、その美しい絵に、「花よりも小さくなれ 花の美しさが見える」と書かれていました。アワコガネギクというのは、野山で見かける黄色の野菊の小花です。

  アワコガネギクの細やかな花。その素朴な花よりも小さく、低く、心がシンプルになれば、花の美しさが見えて来るかも知れません。星野さんは20代からほぼ40年、動けない身体で、絵筆を口にもってその小ささを生きておられますが、小ささを生きておられるから、花の美しさも優しさも、素朴さも、いのちも見ることができていらっしゃるのでしょう。いや、今なお、「花より小さくなれ」と自分に言い聞かせておられるので美しく見えるに違いありません。

  大きく、美しく、価値あるものとして、自分を目立たせようとしているのが現代という時代です。そんな時代の中で、星野さんの存在も詩画集も、その価値観と違った基準を生きるからこそ価値が現われているのでしょう。星野さんの業も一隅を照らすキリスト者の営みと言えます。

  エパフロディトは自分を目立たせようとしません。ただ自分が置かれた所で、愛にかけて行ったのです。私たちも自分が置かれた所で、小さくていい、キリストの栄光のために生きて行きたいと思います。

             (完)

                               2009年8月2日

                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真:オルセー美術館で ② )