罪人を招く神 (上)


                 旧市街にジャン・カルヴァン通りというのがありました。
      
  
                                                                                            マルコ2章13-17節


                                 (1)
  イエスガリラヤ湖の畔で、集まった沢山の群衆に神の福音を語っておられました。そして、町の収税所のそばを通りかかられたとき、そこにアルファイの子レビが事務所に座っているのをご覧になり、弟子としてお招きになったと書かれていました。

  徴税人というのは、単なる税務署員でなく、当時、道路や橋の通行税を取り立てたり、市場に出される商品に税金を課したり、塩や物品の移動にも課税したりした者たちで、ローマ駐留軍の手先になって税金を搾り取っていたので、一般の人たちから憎まれていました。その上、請負仕事でしたから、収益を少しでも増やすために規定よりも水増しして税金を取ったり、法外な税を吹っかけたり、しかも悪辣な取立てをするために、強盗のように呼ばれていました。

  最近のサラ金業者はどうでしょうか。しばらく前までは、安易な貸し方をして、ローンを払えない人たちから悪辣な取立てをしていました。有無を言わせず払わせようと、例えば、「金がないのなら、体の一部を売ってでも、金を作って来い」というようなひどい言葉で脅したようです。いつの時代も、闇の世界は光の世界の背後について回っています。

  レビはそういう徴税人の一人でしたが、イエスは彼を弟子としてお招きになったのです。それだけでなく、彼がイエスと弟子たちを食事に招待した時、実に多くの徴税人や罪人が同席していたのに、イエスは恐れることなく、まだ罪から足を洗ってはいない人たちの中に入って行って同席されたというのです。

  食事に同席するという事は、親しい友になるという事です。仲間になるという事です。ユダヤの律法である法律は徴税人や売春婦、罪人との交わりを固く禁じていましたが、イエスはそれを破って罪人の仲間になっていかれたのです。

  イエスは隔ての壁を越える実に自由で大胆な人でした。それは、神との交わりに支えられ、神との交わりを源泉として、それに与り、押し出されながら生きておられたからです。

  イエスは神の子です。だが、神の子であるからと言って神との交わりを不必要とされません。キリスト者だから、もう神との交わりはいらないのではありません。キリスト者であればあるほど、神との実際の交わりなしには力が湧かないことを知っています。信仰が飾りであれば力が湧かなくてもいいのですが、飾りでなく実際的なものであるなら、神との交わりは不可欠です。イエスは神の子であられるゆえに、ますます神と交わられました。1章35節に、彼は人里離れた淋しい所に一人で祈りに行かれたとある通りです。祈りがイエスの自由と大胆さの源でした。

                                 (2)
  さて、イエスは通りがかりに、レビが収税所に「座っているのを見かけ」られたとありました。

  レビは税金の取立てで富を築き、同業の仲間を多く持つ人間です。彼が職を捨て、イエスの弟子になると言うので、別れの食事会に大勢の仲間が集まって来たことでそれが分かります。

  「収税所に座っている」レビにイエスの視線が留まった時、富はあっても底知れぬ孤独と寂しさ、空しさの影すらその背中に落ちているのを見逃されませんでした。洞察は当たっていました。レビはイエスに招かれると、仕事を捨て、「立ち上がって」直ちにイエスの後に付いて行きました。

  「立ち上がって」とは、人生の自分を掛けれる目標を持たないだけでなく、曲がった、汚れた目的のために日夜奔走して来た生活からの決別を示唆しています。金を儲けても顔は輝いたことがなかったレビです。しかし今、全てを捨ててイエスに従って立ち上がった時、彼の顔は明るく喜びに輝いたのです。

                                 (3)
  ところが、彼らと食事をしているイエスを見たファリサイ派の律法学者は、イエスの弟子たちに、「どうして、罪人たちと食事をするのか」と迫りました。先程も言いましたが、ユダヤ人たちは法律に基いた潔癖家です。不浄な者との交わりは厳禁していました。市場から帰ったら、必ず手を洗いました。

  私たちも最近、街から帰ったら、手を洗い、口をすすぎます。ただそれはインフルエンザという別個の理由ですが。

  それは冗談にして、イエスは律法学者のことを知ると、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたとあります。

  徴税人はユダヤの法である律法を破る人たちでしたから罪人でした。それは外に公然と現われた社会的な罪でした。歴然とした罪人は人目にとまり、忌み嫌われ、一般社会から排除されました。

  歌人の齋藤茂吉は、「罪を計れば巖より重き」と歌いました。外に現われた罪もありますが、外に現われない罪もあります。だが外に現われない罪は、時には外に現われた罪よりもっと重く深刻な場合もあります。

  イエスはその外の罪だけでも内の罪だけでもなく、内と外の人の罪をことごとく知りつつ、「私は正しい人を招くために来たのではない。罪人を招くためである」と語って、レビを招き弟子とされたのです。イエスが、正しい人だけを招くために来られたのなら、私たちは救いとは何ら関係なかったでしょう。

  また、もし徴税人のレビを弟子にされなかったら、エリコの町の有名な徴税人の頭、ザアカイはイエスと出会うことはなかったでしょうし、悔い改めることはなかったでしょう。彼は、徴税人をも弟子にしているという噂を耳にし、イエスとはどんな男なのか、イエス見たさに、エリコに来られた時イチジク桑の木に登って見下ろしたのです。そしてこれが、イエスとの決定的な出会いになりました。すでにイエスが、ザアカイのことをご存知であり、「今日、自分はあなたのところに泊まろうとしている」と言い出されたからです。友のいない彼は初めて神の愛を知り、「私は財産の半分を貧しい人に施します」と約束しました。

  ですから、今日のレビの招きは、ペトロ、アンデレたちの招きに勝るとも劣らない重要さを持ちます。

          (つづく)

                                2009年9月27日 


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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