暁の光を見ていますか (上)


  
  
  
                                              
                                              ルカ9章28-36節

                                 (序)
  今日は「山上の変貌」と呼ばれる箇所からご一緒に学びたいと思います。これはガリラヤ地方にあるタボル山で起ったとか、北方のシリアにあるヘルモン山での出来事であるとか色んな説がありますが、場所は未だ不明です。ただこの出来事は、イエスはどういう方か、この方は誰なのかという事を語っているので、大変重要な箇所です。

  この出来事は信仰にとってだいじな出来事ですから、ギリシャを中心とした東方正教会は古くからイエスの変貌の出来事を祝って来ましたし、カトリック教会でも12世紀には取り入れられ、8月6日に祝われて来ました。ただ残念なことに、プロテスタント教会では特別な日として扱われていません。

                                 (1)
  さて、イエスは山の上で祈っておられるうちに顔の様子が変わり、服は真っ白に輝き、モーセとエリアが現われて、イエスエルサレムで遂げようとしている最期について、ですから十字架の死について話していたというのです。また、雲の中から「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」という声がした、と書かれていました。

  イエスは洗礼をお受けになった時、「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」という声をただ一人聞かれました。しかし、ここでは洗礼をお受けになった時とほぼ同じ言葉ですが、3人の弟子たちもそれを聞いたというのです。「これに聞け」と言うのですから、特に彼らに語られたのです。

  「これは私の愛する子、選ばれた者。これに聞け」とは、どういう意味でしょう。イエスは永遠の昔から神の子であり、神から愛され、神の喜びであり、誉れでもあるという事でしょう。また、イエス・キリストは神と密接な交わりにある方であるという事です。そして父なる神に選ばれて、特別な使命を帯びて地上に遣わされた方であり、今、生涯の最期に父なる神との関係をますます強め、特に十字架の試練を通して最終的に極限まで強めて行かれる。「この方に聞け」という事を意味します。

  実際、イエスは生涯で一番過酷な十字架につけられる暗黒の時にも、ますます神に信頼していかれました。そして最期は、自分を神に明け渡すという、すっかり神に委ね切るというものだったと言っていいでしょう。

  「山上の変貌」において、キリストの隠された本当の姿が現わされたのです。イエスの姿が栄光に輝いたのは、その真の姿が現わされたからです。

  その輝きに接して、ペトロたちがドギマギしている姿が、今日の聖書に書き留められています。新郎は、結婚式に見違えるほど美しくなってウエディングドレスを着て目の前に現われた新婦の姿を見て、大抵ドギマギしていますね。ペトロも全くドギマギして、思わず、「この山に、あなたがた3人の記念の家を建てましょう」と、心にもないことを言ったとありました。これは、口ではとうてい言い表せない、畏れとおののきに満ちた出来事だったからでしょう。

  旧約聖書の代表者ともいえるモーセとエリアが、イエスと語り合っていたという事は、旧約の人々が待望していた方が、今、栄光に輝く方として旧約の人たちによって歓迎さられたという事でしょう。新約のイエスは、旧約から承認されたという事です。言葉を変えて言えば、イエスにおいて、旧約聖書新約聖書に統一がうまれ、連続性が成立したという事です。

                                 (2)
  イエスの栄光の輝きとは何でしょう。3点が考えられます。

  それは第1に、イエスがご自分を神に委ね切られた時、イエスにおいて神の光が輝き出で、使徒たちの目に映ったのです。イエスの神への全幅の信頼が、弟子たちの目に、光のごとくまばゆく輝いたという事です。これは、神への信頼の輝きです。

  それだけではありません。第2に、山上のイエスの栄光の輝きは、やがて十字架の上につき、ご自分の命を全人類のために全く献げ切るという神の子の輝きであり、贖罪の死の輝きです。2千年前に、この輝きが最後決定的な輝きとして人類の上に起ったのです。闇の力に勝利する輝きとして起ったのです。それがここで先取りとして輝いたのです。

  また第3に、死に勝利して甦られる、復活の先取りとしての輝きです。

  復活の先取りと申しました。皆さんは、日常生活の中で、暁(あかつき)の美しい光をご覧になっておいででしょうか。東京では地平線は見れませんが、遥かかなたの東の辺りが微かに赤みを帯び、淡いグリーンともブルーとも何とも言えない、素晴らしく澄みきった美しい色合いがたなびく雲にも映えて刻々と変化しながら、空にだんだん広がって行き、間もなく東の空が赤い橙色に染まって眩(まぶ)しいばかりの朝日が顔を現わします。その朝日が現われる瞬間、また現われるまでの、暁の空の何とも言えない神々しい希望の色は譬えようもありません。

  今日は、「暁の光を見ていますか」という題ですが、暁の光はむろん、その後、東の空にさん然と輝き昇る朝日の先触れです。イエスの山上の変貌は、その暁の光に似て、人類へのイエス・キリストの美しい愛の姿を反映しています。キリストの人間性が、この変貌によって、神の愛に満ちあふれた人間性として光を放ったのです。この光の永遠の新しさに接するなら、私たちも決して飽きることはないでしょう。

  皆さんは、人類の新しい夜明けを告げる「暁の光を」ご覧になっているでしょうか。イエスにおいて現わされた、神の人間性の輝きです。その暁の光に日々接していくなら、皆さんの存在そのものにやがて新しい展望が開け、皆さんご自身の人間性に輝きが増していくでしょう。皆さんご自身が、人生の暗黒の夜を抜けて、希望の朝を迎えることになるでしょう。

  ペトロたちは、何を言ってよいか分からなかったとあるのは、いわく言い難い栄光のキリストの姿への、言葉にならない驚きと感動のためであったと言えるでしょう。

         (つづく)

                              2009年8月23日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真:オルセー美術館で ⑦ )