宦官の喜び

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                                                 宦官(かんがん)の喜び

                                                 使徒言行録8章26‐40節

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  ステファノの殉教後、教会への大迫害が起りました。ところが迫害で難民となって逃げた人たちは、行く先々でキリストの福音を宣べ伝えて、キリスト教が先ずサマリア人に広まりました。サマリアでは、人々をペテンにかけて名声を得ていた魔術師シモンが、他の人たちが信仰を持つのを見て洗礼を受けますが、やがて形ばかりのキリスト教徒から本物のキリスト教徒になって行きます。

  元はエルサレム教会の食事係りとして選ばれたフィリポも、この伝道に率先して加わって彼を導きましたが、今日の所に進むと、主の天使が彼に、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言うと、フィリポはすぐ出かけて行ったというのです。

  すぐやる人がすべてを手に入れるなどと言われ、そんな題の本が出ています。10秒で行動に移す。すると人生を変えられるというのです。単純な人生観ですが、フィリポはどっちかというと、そういう単純さを備えた人だったかも知れません。彼は神から示しを受けるとすぐに行動に移す人で、そこに爽やかな信仰と人柄が滲み出ています。色々理屈をつけてやめたり、グズグズしないのです。

  すると、折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていた財務長官、エチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰国途中でした。むろん今のように飛行機ではありません。のろい馬車の5千kmの旅です。

  エチオピアは、エジプトのかなたアフリカの北東部にある国です。この国はシバの女王の国と言われ、4千年以上の歴史を持つ世界最古の王国として有名です。ソロモンとシバの女王の関係から、この国にユダヤ教が入ったようです。しかし、今、読んだ宦官が帰国後、キリスト教を伝えたのです。エチオピアは4世紀にはキリスト教国になっています。4世紀と言えば聖徳太子より300年程前のことです。この宦官の伝道が営々と引き継がれたのでしょう。

  カンダケは人名でなく、エチオピアの女王は「カンダケ」と呼ばれます。そのカンダケの高官で、女王の信頼あつく、全財産を管理する財務長官が、礼拝から帰国途中だったのです。

  彼はユダヤ教の信仰を持っていたのでしょう。女王のお許しを得て長い休暇を頂き、はるばるエルサレムに巡礼に来たのです。彼には、未だ解決されざる人生の苦難の問題が胸に詰まっていて、その苦しみと魂の渇きを何とか解消したいと、安らぎを求めて、はるばる危険を冒してやって来たに違いありません。皆さんの中に、なかなか解決できない問題で苦しんでいる方があるなら、やはり魂の渇きを覚えておられるでしょう。

  女王の全財産であって、国王の全財産ではないにしても、莫大な財産です。この管理は国の重臣の責任で、優れた経済観念を持ち、法律にも広く通じ、財産を増やす術にもたけた人物でなければなりません。経済だけでなく、女王の信頼の厚い相談役でもあった筈です。

  だが宦官です。たとえ王家の高官という高い地位にあり、高収入を得ても、宦官ほど屈辱的な人生はなく、子孫に財宝を残したり、跡継ぎの楽しみもなく、一般的に女性から男性として相手にされません。あれこれ考えれば、心休まらず、人生の不条理に魂の激しい渇きを覚えたのは当然です。

  宦官。ここに人類の深刻な問題があります。人間とは何者かの問題が凝縮されています。

  今は科学が進んでバースコントロールが進んで、問題の深刻さが見え難くなっていますが、人間は個人的にも社会的にも最もコントロールし難いのは性の問題です。性は子ども時代やかなり高齢になれば、コントロールできても、青年前期の10代から60代まで、個人の体と心の中で暴れまくるのが性です。女性はよく分かりませんが、男性はそうです。

  聖書は、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とヤコブ書で語ります。「どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火だ」とも言います。ほぼ同様に、性を制するのは難しいことです。性が暴走すると社会秩序が乱れ、家庭も崩壊しますが、あちこちで今も暴走する姿が見えます。

  宦官というのは、女王や大奥に仕える男性です。女官たちも多数仕えていますが、男性でなければ務まらない部分を男性の高官が、去勢され、男性の機能を失わされて仕えさせられるのです。去勢せずに、そのままだと何が起こるか分からないという、人間への不信が宦官の制度を作らせたのでしょう。女王との間で起こるかも知れません。他の女官たちとの間で起こるかも知れません。それで睾丸を切り取られたのです。実に屈辱的です。

  この宦官は屈辱にどうしても堪え得ない、魂の怒りのようなものが沸騰することがあって、心が鎮まらなかったのではないでしょうか。

  これは現代の問題でもあります。旧優生保護法の下で、多くの障碍者が断種させられました。不良な子孫の出生を予防するという名目で、去勢を強制させられ、裁判になっています。国が強制的に性のコントロールをしたのです。

  更に脱線しますと、妊娠中絶手術は親の様々な事情があってなされます。母体保護という名目もあり、まだうまく育てられない、育てられる経済状態にないなど、大人側の理屈があります。しかし宿った子供側からすれば、彼らは沈黙していますが、大人側の事情で生まれる権利を剥奪されることにならないかという事です。殺人に近く、生まれて来ようとする魂への冒涜にならないかという事です。絶対悪とは言いませんが、「おろせばいい」と簡単に言ってのけるのには、疑問が残ります。何しろ日本で年間17万から18万人が中絶手術を受けます。一種のホロコーストとも言えます。10年で170万から180万人です。宦官という非人間的な制度を考えると、障碍者ハンセン病の人たちに強制された断種の問題を始め、妊娠中絶の問題など、人間の暗い闇の問題にまで及んでいきます。

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  さて、エチオピアの高官は、帰国途中、馬車に乗ってイザヤ書を読んでいました。すると、聖霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言ったというのです。彼はここでもグズグズせず、直ちに走り寄っています。すると、馬車の中からイザヤ書を朗読している声が聞こえたのです。そこで、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねると、宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言って、馬車に乗るようにフィリポを招いたのです。

  彼が朗読していたのは、イザヤ書53章7、8節でした。今の聖書と若干違いますが、ほぼ同じです。「彼は、羊のように屠(ほふ)り場に引かれて行った。―屠場、屠殺場のことです―。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

  高官は読みながら、自分こそ「羊のように屠り場に引かれて行」く人生を送っていると思っていたでしょう。「毛を刈る者の前で黙して口を開かない小羊」とは、自分のことだと思って、わが身を顧みたでしょう。自分は身分の高い王家の高官ですが、人々の心の中では、「卑しめられ」、軽蔑されていると分かっています。誰が、この運命に正当な裁きをしてくれるのか。「誰が、私の子孫について語れるだろう。」このように自分の身の上と絡ませて読めば、自分も口を開かず黙々と女王の命に服し、外面的には不幸を少しも嘆かず、不満を言わず生きている訳で、いったい誰が正しく裁いてくれるのかと、身につまされる思いでしょう。

  繰り返しますが、運命の手によって、自分の人生が自由にならず、勝手に首に縄をつけられて引っ張リ回されている身である。死に向かって、屠られるために生きていると思うと、やり切れない訳です。

  いずれにせよ、イザヤ書53章は自分と深い関係があるような気がして読んだでしょう。しかし預言者は誰について語っているのか、預言者自身の事なのか、他の誰かか。分かるようで分からないのです。

  それでフィリポに、「どうぞ教えて下さい。預言者は、誰のことを言っているのでしょうか。自分についてですか。誰か他の人についてですか」と尋ねたのです。

  すると、思い掛けない答えが帰って来ました。預言者イザヤは、自分のことでなく、やがて来られるイエスという方のことについて預言したと言ったのです。しかも、イエスは私たちの重荷や苦しみ、十字架を、そして私たちの罪をも、自らの罪、十字架として担って下さり、私たちに代わって正当な裁判もなく裁かれ、取り去られました。彼には子どもはなく、誰もその子孫のことを語るものはない。罪も悪も汚れも罪過もないのに、暴虐な裁きによって取り去られた。だが、これが、重荷を負い、苦労し、運命の不条理に苦しむ私たちを救うためであったし、これが神の命に服して私たちと共に歩んで下さった30数年の生涯であったと、順々とフィリポは説いたのです。

  フィリポの話に引き込まれて聞くうちに、彼は、この方は私のため、私たちのために代わって、卑しめられて取り去られたのだと知って、自分のような慰めなき者のことを覚えて、この方が十字架に死んで下さったことを思って、次第に慰められ、絵も言えぬ平和が与えられるのを感じたのです。まさに彼はキリストの喜ばしいおとずれ、福音を聞いたのです。

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  彼は暫くして、「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と言って車を止めさせ、2人は水の中に入って、フィリポは宦官に洗礼を授けたのです。

  私はここで軽い驚きを覚えます。フィリポは、牧師でも12使徒でもありません。エルサレム教会の食事係の1人として選ばれたのであって、現代の牧師のように按手礼など受けていません。だが洗礼を行ないました。初代教会は、聖霊に導かれて非常に自由です。天真爛漫です。教会の規則などという小難しいものはなく、大胆に洗礼を授け、あっけらかんとして活動しています。ですからきっと、聖餐式も洗礼を受けた者しか受けてはならないとか、正教師以外は執り行えないなどという決まりも、制限もなかったでしょう。神の聖霊の働くまま、自由に、大らかに、喜びをもってなされていたに違いありません。

  そういうフィリポから洗礼を受けて、宦官は喜びに溢れたのです。その後、フィリポが急に見えなくなり、フィリポとの洗礼後の親しい喜びの交わりを経験することがなかったに拘わらず、喜びに溢れて帰国の旅を続けたのです。彼は洗礼で、イエス・キリストに直に出会ったのでしょう。彼の根源的な所において出会った。キリストから慰めを頂いた。その喜びは誰も奪うことが出来ない類の大切なものだったでしょう。

  彼が無事帰国し、母国で福音を伝え始めたというのは確かにあり得たことです。もはや、自分の子孫を見なくてもよくなったのです。キリストの信仰を持つ人たち。自分と同じ生き方、信仰の子どもたちを持てばいいのです。彼らこそ真の財産、精神的な財産を継いでくれる者、莫大な自分の信仰の遺産の継承者だと知ったからです。今は高齢化社会で遺産の問題があちこちで言われます。だが実の子どもたちが、親の一番大事にしている願いをもってそれを使ってくれるかというと、とんでもない。必ずしもそうでないのです。だが、彼は本当に信頼できる人たちに自分の遺産を継承できたでしょう。

  不妊で悩む方々が多くいます。10年に近い治療で500万円かけたが駄目だったとか、色々あります。そんなことに真の価値があるのでしょうか。それは実はゴミでないか。いや、すみません。ちょっと言い過ぎました。でも、それから解放されればゴミです。遺伝子を後世に残せなくても、精神的な遺産を後世に残すことが出来れば、その方が価値が高いのではないでしょか。宦官はそれを悟ったのです。だから吹っ切れた。

  教会学校というのは、そういう貴重な遺産を後世に伝える大切な意味を持っています。経済的な財産でなく、精神的な、魂の一番大事な財産を、遺伝子のつながりのない次代にも伝えたいのが教師です。それに与れるのは、私たちの喜びです。

  洗礼を授けると、フィリポはサッとどこかへ連れ去られました。洗礼を受けて親しい交わりが出来ると思っていたのに、神のみ心はそうではなかったのです。イエス・キリストとの交わりが出来れば十分なのです。人との交わりがあるに越したことはありません。しかしそれがなくても、十分支えられて行くのです。宦官がそうです。彼は喜びに溢れて旅を続け、母国に帰ってからも、喜びに溢れた人生の旅を、晩年まで続けたのは想像に難くありません。

  宦官の喜びは、福音の本当の喜びでした。このような喜びを私たちも頂きたいと思います。

  最後に、イザヤ書56章3節以下をご覧ください。彼は先程は馬車の中で53章を読んでいましたが、旅を続ける中で56章も読んだでしょう。こう語っています。「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。」彼は異邦人です。だが異邦人もユダヤ人ももはや区別はないと言うのです。そして次の4節、「宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」あなたはもはや枯れ木ではないのです。彼はキリストと出会った気づいた筈です。キリストを信じる中で、多くの息子や娘を持ち、兄弟姉妹、家族を持って暮らしていけると、彼は気づいたのです。肉親よりもっと広がりのある、深みもある、大きな家族が与えられたのです。

      (完)

                                            2019年6月16日

                                            板橋大山教会  上垣勝