聴くこと、応答すること (下)


 
  
                                                                                           ヨハネ5章19-30節

                                 (3)
  イエスは25節で、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と言われました。

  死者がどうして声が聞けるのかと思いますが、比喩的に語っていらっしゃるのでしょう。神の声を聞く者は「生きる」のです。命が与えられるのです。どこに行っても、何をしても、どんな薬を飲んでも与えられず、死んだような者であったのに、神の子の声を聞く時、生きる者、命を持つ者、イエスの命に満たされる者になるのです。

  イエスも、父なる神に留まり、神に耳を傾け、その意志を行おうとされたと申しました。イエスにおいて、「聴くことと応答すること」は一つです。神に聴く事によって、喜ばしい業をますます力強くなさり、神に留まることによって、一層自由に大胆に人を愛し、仕えていかれました。

  今日の箇所は、5章1節から起こった事件の続きです。イエスは、38年間病気で苦しみ、ベトザタの池の回廊で池の水が動くのを待っていた人を起き上がらせ、自分の足で歩かされました。池の水が動く時、真っ先に飛び込んだ人はどんな病気でも癒されるという言い伝えがあったので、彼も水の動くのを待っていたんです。だが水が動いても誰も自分を運んでくれません。みんな我先に飛び込みます。病人たちの間でも競争社会なのです。みんな我が身が可愛いんです。しかしイエスが彼を、人頼みの人生を送るのでなく、自分の足で立ち、歩くようにされたのです。

  この事件の中心はその次です。「その日は安息日であった」とあります。イエス安息日にこれをなさったことです。安息日の律法を破って男を癒されたのです。これがきっかけで、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始め、イエスをますます殺そうとねらうようになったと、16節、18節は述べています。

  ところが、イエスはこんな不利な事態にも拘らず、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」と断固として言われました。神に従う時、イエスは最も自由であられました。イエスは自由を、愛を行なうために実際に生きられました。

  この段落の表題は「み子の権威」となっています。権威は27節の権能という言葉と同じで、ギリシャ語ではイクスーシアと言います。これはイクセスティンという言葉から来た言葉で、「許す」とか、「よろしい」という意味です。まことの「権威」は、高きにおられる方、神によって存在を「許され」、「よろしい」とされ、任じられる時に生まれるというのです。イエスの権威はそこから来ています。命がねらわれても自由であり、まことの権威を持って、弱く低くされた人を愛し、仕えられました。むろんその権威はその由来からすれば限りなく高い権威ですが、自分を低くもできる権威であり、自分を十字架の上に捨て、強盗をも愛して救うという形で現わされた権威でした。

  父なる神への服従が愛の自由へと現われて行くのです。

  戦時下のドイツでは、ヒットラーの率いるナチスに抵抗して「告白教会」というのが生まれました。そして1934年にバルメン宣言というのを発表します。ニーメラーとかヴルムといった牧師たちが中心になり、スイスからカール・バルトたちが支援しました。

  バルメン宣言は、「唯一の神の言葉の他に、あるいはこれと並んで、他に告白の源泉」はないと語ります。また、「イエス・キリスト以外に、生においても死においても、私たちが聴き、信頼し、従わねばならないものはない」とも語ります。

  今聞くと、何でもないかのように聞こえますが、当時の歴史状況の中では、ナチス・ドイツの主張に打撃を与えるものでした。キリストのご支配の下に生き、キリストの声にのみ従い、それにのみ拘束される時、人間は、教会は自由であるということを、彼らはナチスに抵抗しながら実践したのです。

  繰返しますが、25節は、「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、…死から命へと移っている」とあり、24節は、「死んだ者が神の声を聞く時が来る。…その声を聞いた者は生きる」とありました。キリストに聴き信じる者は、死から命に移っている。死んでいても、神の声を聞くなら、彼は「生きる」と言われたのです。

  この、「生きる」とはどういうことでしょう。これは、キリストに真に聞いていくなら、自分が負ったり、家族が負っている試練や困難に圧倒され、征服されそうになっていても、必ず生き生きと担いうる者になるという事です。

  キリストの命を与えられなければ、真の意味で試練を担えません。そこではもう辞めたい、もう限界だ、何で私ばかりがこんな酷い目に遭うんだという思いに支配されがちで、たとい担っても、後ろ向きで担っている。いやいやながらしている。

  しかしキリストの命は尽きぬ泉のごとく、後から後から新しい力となって湧き出る命ですから、試練をも新しい力をもって担うことができるのです。喜びさえ与えられ、使命感さえ授けられて担わせて下さるのです。事柄の違いや、大小はあるでしょうが、先程の速水さんと同じです。

  ローマ書に、神との間に平和を得ている時、私たちの受ける苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すとあります。負い難い試練、逃げ出したい困難、涙の谷を行く場合もあります。しかし、そのような試練の中で研がれ、磨かれ、鍛えられ、珠にされることがあるのです。

  神との平和を与えられている時には、そのようなことが起るでしょう。神は耐えられない試練を与えられることはありません。磨かれ、鍛えられれば珠になる試練を受けていると考える人は幸いです。

          (完)

                                 2009年7月12日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ヴェズレーのレストラン。)