暁の光を見ていますか (下)


  
  
  
                                             
                                              ルカ9章28-36節

  
                                 (3)
  イエスはその変貌によって、ご自分の中に神の光が存在し、満ちあふれていることをお示しになっただけではありません。神の子であることを啓示されました。また、イエスは私たちとその恵みとまことを分かち合おうとされたのです。変えられるのはイエスだけでなく、イエスを信じる私たちも、イエスの恵みとまことによってまた変えられ、変貌するのです。

  第2ペトロ1章は、「これは私の愛する子。私の心に適う者。これに聞け」という今日の出来事を取り上げながら、「夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に上る時まで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していて下さい」と勧めています。山上で語られたこの言葉は、それに目を留めれば、どんな暗闇の中にいる人たちにも、希望の約束となって輝くのです。

  「暗い所」とは、当時はドミチアヌス帝下でキリスト者は最も激しい迫害を受けていましたが、その時代の事実をさしています。ノコギリでひき殺されるという拷問さえ受けました。そういう真っ暗闇の中に生きる時にも、「これは私の愛する子。私の心に適う者。これに聞け」という言葉は、私たちのともし火になるのです。

  「これに聞け」と言うのですから、このお方に留まり、留まり続けるのです。すると、道が開かれて来るのです。全く前途が見えない中で、ここに留まり続ける時に夜が明けて来るのです。

  更にこの出来事は、私たちもイエスのように神に委ねて、明け渡すなら、私たちの弱さや崩れやすさ、傷つきやすさや不完全さにも拘らず、それらを神に委ねるなら、神が私たちの存在の中に入って来られる入り口になるという事を示しています。存在の破れ口から大いなる神が入って来て下さるのです

  私たちは、自分の弱さや壊れやすさ、罪の犯しやすさ、また小心さも恐れる必要はありません。神をこそ恐れ、神をこそ敬い、神はこれらをも必ずお用い下さり、神の栄光のためによく燃える芝として燃やして下さると信じるのです。私たちの歩みを遅らせ、邪魔をする茨も、神によって燃やされて、私たちが進んでいく暗い行く手を明るく照らす炎になるように用いて下さるのです。弱さも挫折も神に捧げられると、プラスに変えられます。

  聖書だってそうです。聖書は正典であり、神の言葉だといいますが。しかし聖書も人間が書いたものです。神が直接筆をとって書かれたでしょうか。そんなことはありません。人間の業ですから、間違いも、罪もあるでしょう。でもこれが神のために捧げられた時に、神の言葉として光を放ってきます。私たちの前途を照らします。人間の業だからと言って、批判的に見るだけでは神の言葉は聞けません。

  私たちの心の内には、矛盾も恐れも明日への思い煩いもまだまだあります。ない人って、おられますか。しかし神に委ねる時、聖霊によって一つの光が輝くのです。罪の人間性がなくなるのではありません。だが、それも神が責任をもって解決して下さるのです。

  神に委ねる時、私たちにそれからの解放が、自由が授けられるのです。

                                 (4)
  「山上の変貌」の出来事はカトリックでは8月6日に祝われると申しました。今年の8月6日、イギリスのプロテスタント教会の総主教、Dr.R・ウイリアムズが、テゼにおいて青年たちに「山上の変貌」について興味深いことを話していました。

  イエスが山の上に連れて行かれたペトロ、ヨハネヤコブは、「これは私の愛する子。選ばれた者。これに聞け」という言葉を聞きました。彼らはイエスの栄光の姿に接したのです。しかし、この3人はゲッセマネの園でもイエスの近くにいたと書かれています。3人はイエスの苦難の姿にも接したのです。

  こう述べて、私たちはイエスの栄光の姿と苦難の姿を黙想することが大事です。そして8月6日を、広島の被爆者を覚える日として黙想し、広島だけでなく世界の苦難の中にある人たちを覚え、神が授けられた人間の尊さ、尊厳を覚え、人の尊厳を再発見する日として覚えるべきです、と語りました。

  私も本当にそうだと思います。私たちがキリストのみ顔を見上げるとき、苦難と栄光が表わされていること、神の憐れみと勝利の望みが表されていることを同時に覚えるべきです。パスカルが言ったように、私たちは人間の悲惨と人間の偉大さ、この二つに目を留めるのです。片寄らず、この二つのものを緊張関係の中であわせ深く味わうのです。

  苦難と勝利の望みであるキリスト。このお方は、私たちの闇の夜を貫いて光をお与えくださるでしょう。このお方がおられる時には、闇はもはや闇ではありません。闇の夜も昼のように光を放ちます。そしてやがて、暁の光が私たちの目の前に現われます。

         (完)

                             2009年8月23日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真:オルセー美術館で ⑧ )