キリストの内に自分を見出す (下)


  
  
                                              
                                              フィリピ3章1-9節
  
  
                                 (3)
  そして4節以下で、もし「肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない」と述べて、彼の堂々とした経歴を並べます。ユダヤ人なら羨むばかりのものです。

  だがそれを披瀝した後、パウロは、「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と思うようになった。…キリスト・イエスを知ることの余りの素晴らしさに、今では他の一切を損と見ています。…それらを塵あくたと見なしています」と言い切ったのです。

  パウロは模範的なユダヤ人でした。家柄も学問も信仰的な熱心さも、3拍子揃ったユダヤ教徒でした。その有利なものを塵あくた同然だと言い放ったのです。

  それはキリストの恵みが彼に迫ったからです。何ゆえキリストは十字架で死なれたのか。十字架は我がためであった、主の復活は我がためであったと知ったからです。律法に頼っていて気づいたのは、偽善の姿、救われていないのに救われていると語る自分のごまかしの姿でしかありませんでした。

  だが、彼は律法によらぬ、救いの道を知りました。ですから彼は9節で、「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による、信仰に基づいて与えられる義があります」と語るのです。彼はそこまで徹底してキリストの恵みに生きます。言葉を変えて言うなら、彼は今、神の栄光のためにのみ生きます。自分のために生きようとしません。そこまで献げ切ったのです

  それは今日の題のように、「キリストの内に自分を見出す」ことです。あるいは9節にあるように、「キリストの内にいる者」として自分を見つめることです。

  キリスト者とは「神の栄光のために生き」、「キリストの内に自分を見出」して生きる者です。そこに私たちの喜びがあり、慰めも使命も、誇りも希望もあります。

  どんなに貧弱な土の器であってもかまいません。弱く崩れやすい、見栄えのしないものであってもかまいません。この土の器には神様によって宝が盛られています。その栄光を現わすのです。ですから貧弱な土の器である方が、その宝の輝きを現わせるかも知れません。キリストの栄光、教会の徳を高めるのです。自分の徳ではありません。

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  ところが反対者たちは、肉に頼って分裂を引き起こし、パウロは神の栄光の為に捧げ切って働いているのに、パウロさえ疑うのです。「彼は信用できない。信頼できない」と言うのです。それだけでなく、不信感をもって他の人に働きかけ、教会を覆そうとするのです。

  そこに人間の罪の測り知れない根深さがあります。

  戦後64年、最近になってやっと、85、6歳、あるいは90歳代になった人たちがボツボツ戦地で自分がしたことを語り始めています。皆さんもご覧になったでしょうが、NHKでここ何日間か報道していました。

  「自分は殺しました」とある人は話しました。戦争だからそんなこともあったろうと思って見ていましたら、「柱に縛られた人を自分は銃剣で刺しました」と話していました。奥さんは横で、こんなことを夫から聞くのは初めてですと、悲しそうな顔をしていました。また別の人は、南方の島で敗残兵になり、食料がなくなって密林を逃げる中で、別の隊の敗残兵に会うのですが、その人が小さな入れ物に塩を入れていた。塩は貴重です。ある時、その人が入れ物を横において川で水を飲んでいるとき、後ろから手りゅう弾を投げて殺し、その塩を奪ったと話していました。

  罪の根の深さです。人は測り知れないほど残酷になるものだと思いました。獣以下になります。獣は獣以下にならないのに。パスカルは言ったとおりです。

  ユダヤキリスト者キリスト者になっているのに、ただ神の栄光のために働いているパウロをさえ疑い、敵意を煽り、パウロが創った教会を覆そうとするのです。本当に罪の根の深さを思わざるをえません。

  そういうことがありますから、パウロは2章の始めで、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」と書いたのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって」と記したのは、教会の中に信頼を創り出す人間になってもらいたいからでした。

  教会とは、キリストの血で贖いとられた神の教会です。人のものでなく、神のものです。その奥義を知って欲しいのです。キリストは十字架で献げ切られたのです。ですから献げ切るものにならなければ、教会は教会になりません。

  すなわち、歴史をご支配される神のみ心に生きて、キリストの中に自分を見出して活動して欲しいのです。パウロが語る「自分の義でなく、信仰による義」とは、そこまで行きます。

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  暫く前、あるイギリスの教会の働きを読みました。その教会は「エデン・プロジェクト」というのを企てて地域の子どもや青年たちの中に入って行きました。ある時、子どもたちの祝福式をして、愛餐会をしました。するとそこに真っ黒なスカーフに頭を包んだムスリムの婦人たちが入って来て、交わりに加わったそうです。子どもたちのお母さんです。

  そんなことは、その地域では一度もありませんでしたから、教会の人たちは大変喜びました。ここに歴史をご支配される神様の業が少しですが進んだと思ったのです。こんな小さな業を、神様がくださった希望のしるしとして喜んだのです。

  これは大変大事なことです。神の栄光を表わすとは、決して大きなことをすることではありません。神様はしばしば小さな子ども達や弱い人たち、また小さな業をお用いになるからです。

  先週オバマ大統領に手紙を出しました。一通はホワイトハウス、もう一通はコピーを大使館に送りました。反対とか、怒りの訴えではありません。今の時代を共に生きる、信仰の仲間として、私はオバマさんをそう思っています。少なくても今はそうです。ですから、親しみをもって広島、長崎への訪問を勧めました。もう少し温かい思いが感じられる、文章にすればよかったと思いました。

  私は、自分とこの教会の皆さんだけと考えたのですが、ある成り行きで、少しだけ他にも呼びかけました。すると大塩先生ご夫妻も加わられて、189人の皆さんの連名で手紙を送りました。

  この手紙がオバマ大統領を動かすかどうかは知りませんが、歴史はしばしば見えないところから始まりますし、いと小さい業から始まります。神がお用いになるなら、歴史は動くのです。いや、たとえすぐに動かなくても、世界の歴史に信仰をもって石を投げたという事実が大事です。それらは皆、神のもとで書き留められていますし、神に思いを届けたという事でもあります。

  平和を創り出すという事は、英雄行為ではありません。ごく小さい業です。そして神様のためにする、小さい業を決して軽んじてはならないのです。

  今私は、これは神の栄光のための行い、神の歴史に参与する行い、「キリストの中に自分を見出す」という小さな業であったと思います。

  ユダヤ教的な、律法主義的なキリスト者は「自分の義」を突き出すのです。恐らく自分では気づいていないのでしょうが、それは自分が、自分がという醜い姿をしています。そして、神の義に生き、ただ神の栄光のために働いているパウロをも覆そうとしました。歴史はそういう巻き返しのようなことが起こります。しかし巻き返しが本流には決してなりません。だから諦めてはならないのです。歴史は神がご支配され、神の義のみが最後的に勝利していきます。

           (完)

                             2009年8月16日

                                      板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真:オルセー美術館で ⑥ )