希望のしるしを見つける人 (上)


    ジュネーブ空港に降りると直ぐ前がSBBの空港駅。これから行く切符の手配を親切にしてくれました。 
  
  
  
                                              
                                              マルコ1章14-15節


                                 (序)
  きのう遅く帰って来まして、今日はまだ時差ぼけでここに立っていますが、皆さんの元気なお姿を見て嬉しく思います。昨夜、飛行場に着いて入国しようとしましたら入国審査官全員があのボックスの中でマスクをしていました。他の国々ではそんなことはありませんでした。検疫の役人も他の職員もそうで、日本は異常なパニック状態になっているのかと恐れました。でも、今皆さんが誰もマスクを着けておられないので、安心しています。テゼで、咳をする人が近くにいたので、私たちは直ぐマスクを取り出して暫らく着けたのですが、誰一人マスクをする人はいません。恥ずかしくてマスクを外しました。私も異常な日本人の一人だと思いました。

                                 (1)
  さて、イエスの福音の内容は、今日の、「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉に集約されます。旧約聖書預言者イザヤはやがて神の国が来ると語りましたが、イエスはもっと徹底して、「神の国は今、ここに来ている。すでにここにある」と語って、神の国があなた方の只中に来て働いていることに目を留めよ、とおっしゃいました。イエスはこの世から逃亡する道でなく、私たちが社会で生き、希望のしるしを見つける道を示されたのです。

  イエスが語られた時代は、決して良い時代ではありませんでした。「ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き…」とあるように、イエスが伝道を始められたのは、当時の巨人的な預言者であった洗礼者ヨハネが投獄された直後です。政治的、社会的、宗教的に希望のない時代でした。世界には暴力が満ち、弱肉強食が猛威を振るい、律法と呼ばれる法律は細かく錯綜して、ジャングルのようになって個人と社会を縛っていました。

  今回、海外で色んな人と出会う中で、今の日本社会も、自由に見えて決して自由でないことを改めて思いました。当時、たとえ個人的には愛の心を持っていても、自由は少なく、壁を越えて異質な者にまで手を差し伸べ、共に生きることは、殆ど実行できない時代でした。

  その時代に、イエスは「神の国はここに来ている」と語って、新しい道が生活の只中に来ていることに目覚めさせようとされました。暗黒の時代です。だが、「ここに神がおられる。神の国はパン種、イースト菌のように練り粉の中に隠されている。必ずパン種は発酵して練り粉を膨らませる。社会が変えられていく」と、希望の福音を語られたのです。

  イースト菌は目に見えません。しかしそれが粉の中にあるなら、必ず練り粉は膨らみます。神の御手は見えないが、必ず働いている。だから、私たちは見えないところで、見えないことを見ておられる神に、落胆することなく祈ることができるのです。

  新聞には暗い事件や、暗い現実社会の解説が沢山書かれています。私たちのいない間に、何か明るいニュースがあったでしょうか。殆ど明るいニュースは見当たらなかったのではないでしょうか。新聞を読んで、生きる力を与えられるというのは、時にあるにはあるが、殆どありません。しかし、そういう現代社会にあっても、「神の国は、既に来ている。」神は働いておられると言われるのです。

  神がおられるのであれば、必ず希望はあります。私たちは、犬のように腐ったもの、汚いものを嗅ぎ出す人でなく、希望のしるしを見つける人になりたいと思います。

  イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光である」と語られました。「世の光になれ」とは言っておられません。イエスの言葉を聞き、それに導かれるなら、「あなたは世の光である。地の塩である」と言われるのです。これは、あなたがたは、暗い社会であっても希望のしるしを見つける人である、その仕事に神はあなた方を任じられたという事であります。

                                 (2)
  私たちの教会は小さいですが、色んな人がおられます。5月に50周年の記念誌を発行して、人数は少ないですが皆さん全員に書いて頂いて、輝いている方がこんなにあり層が厚いことに驚きました。他の人もそうおっしゃっていましたから、こう思うのは私だけではないでしょう.。

  教会に百回聖書を通読した方がありますが、暫らく前に、百回読むのと数回読むのとどっちが価値があるのか、1回であってもじっくり味読する方がいいのでないかと、ある方が書いて来られたことがあります。むろん1回であっても味読して読む人があっていいと思います。

  聖書は身体で読め、生活を通して読め、身読(しんどく)せよと言った人があります。身体を使って、実践しながら読みなさいという意味です。そういう読み方もあります。それはまた素晴らしい読み方です。

  しかし、私はこの教会に百回通読した人がいるのも喜びたいのです。感謝したいのです。そういう方がおられるのが楽しいのです。私自身は百回読もうとは思いませんが、でも、そういうことに挑戦して、人生を真摯に生きて来た90歳の信仰仲間を持っていることは、尊敬に値します。自分ではしないこと、出来ないことをしてくれる人を近い兄弟姉妹として持っていることは、人生の財産です。

  今の時代は個人主義です。みんな自分の個性を伸ばし、それを売りにして生きようとしています。自分を見せよう、見せようという傾向もあります。でもそんな隣人達もみんな自分の財産にして生きる事ができないかと、時々思います。

  多分、一般社会ではできっこないでしょう。でも教会ではできます。教会は古くからそういう風に考えてきた共同体だからです。「私はぶどうの木。あなたがたはその枝である」とは、私たちはキリストを頭とする兄弟姉妹であり、共同体であるという事です。

  今では、牧師たちも個人主義になって、その考えにかなり押されていますが、それは違うのです。やはり神の家族として、共同体として考える時に、教会に属している素晴らしさが見えてくるのです。

  私が言いたいのは、人と自分を、あまり競争的に考えちゃあならないってことです。対抗的に考えては、「神の国は今、既にここに来ている。」神は働いておられるという事が分かりません。畑に隠された真珠があるのに、見えないのです。そうではなくて、同じキリストの体に属する者として、むしろ人との違いを有難いこととして、寛大に人を受け入れ、友になっていくことで、「神の国は今、既にここに来ている。」神は働いておられるという事が、見えて来るのです。

  人生は競争じゃあありません。競争でなく、結局、限られた時間の中で、自分が何に向かい、どう満足して生きるかと言うことです。もう一度言いますが、この膨大な宇宙の中で私たちは競争しているのではないのです。神は競争のために私たちを造られたのではありません。共に生きること、愛の能力を強めて生きるように備えられました。

  ライバル意識というのは張り合うことですから、必ず嫉妬も起りますし、同時に下と思う人に対しては見下げもします。また人の間を裂きもします。ですから、キリストに出会って「悔い改め」が与えられ、新しく造り変えられなければなりません。対抗意識というのは罪であって、未だ救われていない姿です。

  八木重吉は、「自分をぬぐって、そこに光るような新しい人を立たせたい」と書きました。私は青年時代に、この言葉は本当にそうだと思いました。自分のような者が子どもを持ったら子どもは不幸だと思いました。「自分を拭い去りたい。」そう願いました。そんな私に、八木重吉が、「そこに光るような新しい人を立たせたい」という言葉を加えてくれました。キリスト者というのは、罪の自分がキリストにぬぐわれて、そこに新しい人を立たせていただいているのです。

  私たちは兄弟姉妹です。兄弟姉妹であるという事は、私たちの左右や前後におられるAさん、Bさん、Cさんがキリストの光に照らされて、新しい人としてそこに立っておられるのを発見することです。ですから、そこにAさん、Bさん、Cさんがいるという事は実に感謝です。それは、その方に神の国が来ているということです。希望のしるしをその人に発見できる事です。私たち自身も、同じ憐れみの光に照らされているのです。

  ですから私たちは、ささやかな所に希望の光を発見する人間になりたいと思います。すなわち、福音的な心の温かい人になりたいと思います。

      (つづく)

                                2009年9月20日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/