いずこにも光がある

             ノートル・ダム大聖堂を覚えて11 北側の道を隔てた建物から    右端クリックで拡大

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                                                  いずこにも光がある (下)

                                                  使徒言行録8章1‐4節

                                 (2)

  以上がこの個所のあらましですが、ここから先ず考えさせられるのは、1)彼らは迫害を受けて、いつかは復讐をしようと思わなかった事です。一切を神に委ね、神が必要とあれば、報いて下さると考えて復讐を念じなかっただけでなく、復讐するなと説いたでしょう。いかに迫害されても、主が、やがて必要とあれば報いて下さる。私たちでなく、裁くのは主だと考えた筈です。

  それは、十字架上のイエスの赦しの祈りから、またステファノの最期の赦しの祈りからも、十分想像できます。「汝の敵を愛せよ」の祈りが初代教会を貫いていたのです。

  また次のことも考えさせられます。2)信者たちは、ステファノがあんな発言をしたから、こんな大迫害が起こったとか、あそこまで言うべきでなかったとか、あれこれ上げ足を取らなかったことです。彼らは二心を持たず、ステファノに共感し、どこまでも彼を支えたのです。この辺の理解は私たちにとっても大事な姿勢です。教会が窮地に陥ったのは彼のせいだと言わなかったし、考えなかった。むしろ初代教会はステファノに励まされて進んだのです。

  次に、3)大迫害が起こりましたが、暫くするとその苦難が喜びに変わります。まるで将棋で、相手の陣地に歩でも他の駒でも入れば、裏返って成金と言って金と同じになりますが、迫害が転じて大いに躍進することになります。

  どう成金になるのか。エルサレムの外に出てみると、そこには悲しむ人々、苦労する人々が大勢いることを改めて発見し、逃げながら、随所で福音を語って巡り歩くことになったのです。福音を必要とする民衆の発見です。福音の故に迫害を受けて苦しむ中で苦しむ人たちに出会い、悲しみを知る中で悲しむ人たちに出会い、試練をなめる中で試練をなめる人たちに出会った。そしてそういう人の友になった。そして、聞かれればその方々にキリストの慰めの福音、平和の福音、復活の福音を語ったでしょう。

  人生において、私たちもある種の撤退や退避を余儀なくされることがあるかも知れません。しかしこれは主がそこへ遣わされた事かも知れません。いずこにも光があるのです。そこにも希望の主がおられるのです。

  迫害を受けて逃げ出した筈なのに、今、福音を告げ、人々を励ましながら巡り歩こうとは何と不思議な巡りあわせでしょう。エルサレムを出ても、福音に生かされて生きる時には、現実社会に何と多くの慰めを必要とする人たちがいるのだろうと再発見するのです。後退と思えることが躍進に繋がり、世界の舞台で用いられて行くのです。

  次の5節を考えてみてください。「フィリポはサマリアの町に入って福音を語った」とあります。ユダヤサマリアはこれまで敵対関係にあり、民族の壁が厚く、入ってもなかなか心を開いてもらえない地域です。それが迫害を受けて逃れる中で心を開いて福音を語り、彼らも心を開いて福音を聞いてくれる。いつの間にか厚い壁が越えられただけでなく、不思議な出会いが迫害のさなかに起こって行ったのです。

  私たちの試練も失敗も躓きも用いられるのです。試練、困難、迫害、失敗、色々なマイナスも神は用いて下さるのです。案ずるな。恐れるな。思い煩うなと、主は語られます。初代教会はこの迫害の経験から主の恵みの数々を多角的に知って行くのです。

  ステファノの殉教は、信仰の種、信仰の種子となって各地にばらまかれ、長い目で見れば世界各地に、美しい信仰の花を咲かせることになります。そして、更に時代が進めば、巨大なローマ帝国の舞台において、キリストの福音がいかに真価を発揮して行ったか知ることが出来ます。一言で言えば、キリストの福音は、またキリストの国は、その真理において、その深さにおいて、その愛と希望と真実において、ローマ帝国を遥かに超えていることの喜びの発見です。

  霊性という言葉がしばしば語られます。スピリチュアルという事です。ただ多くの人が見逃しているのは、霊性には、善の霊性と共に悪の霊性があることです。悪の霊性は暴力や憎悪を生み出し、敵意を煽ります。また人を惑わす霊性さえあります。迷う人たちを手玉に取るのです。しかし善の霊性は、愛と赦し、平和を作り出し、希望をもたらすのです。それはまことの神から来る真実な霊です。1世紀の後半から2世紀、3世紀にかけてのローマを見れば、いかにイエスの福音の登場が待たれていたか分かります。その最初の潮流のぶつかり合いと渦潮現象が、今日の個所に現れているのです。

  そうです。彼らは渦潮に揉(も)まれながら、いずこにも光があるという事を証ししたのです。

     (完)

                                            2019年5月26日

                                            板橋大山教会  上垣勝

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