聴くこと、応答すること (上)


    
                                              
                                              ヨハネ5章19-30節

                                (1)
  自由と束縛は互いに対立します。誰かに従ったり、規則を守らなければならないのは疲れます。この一年で時代が急に変わりましたが、暫らく前はサラリーマンが脱サラしたり、青年たちがフリーターになったりするのが流行りました。一ころはフリーターと聞くと何か爽やかな感じがありました。そこにも自由を求める姿、束縛されることへの反発がありました。イランで改革派が反乱を起こし、中国では新彊ウイグルで暴動が続いていますが、長く自由が拘束されたり、弾圧されたりしたためでしょう。解放を求めて人々は立ち上がりました。このように、一般に自由と束縛はまったく正反対なものです。

  今日の19節に、「子は、父のなさることを見なければ、自分では何事もできない。父がなさることは何でも、子もその通りにする」という言葉がありました。また最後の30節には、「私は自分では何もできない。」とありました。

  この所を読むと、聖書を知らない人の中には、イエスは父の言いなりになっている長男、意志を持たないボンボンのようだと誤解する人があるかも知れませんが、イエスは単なる父の言いなりではありません。30節にありましたが、更に明確に6章38節では、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行なうためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行なうためである」とあるように、ここにあるのは徹底した神への従順、神の言葉に束縛されていると言えるほどの自発的な服従です。ここにはイエスの、父なる神の心に添って生きようとする姿があります。

  このように福音書のイエスにおいては、神に従うことと自由は、相反するものでなく、むしろ強め合い、補強し合うものです。

                                 (2)
  ヨハネ8章で、イエスは、「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と語られました。

  イエスの言葉に「留まる」とは、その言葉に信頼し、そこに「住み」続け、「根づく」ことです。「留まる」とは、ギリシャ語でそういう意味です。キリストに根を下ろして生きる時に、真理を知り、「自由」が現われてくるのです。

  東京に住んでいる人の多くは地方出身者です。時にはあちこち転勤して、周りに知り合いのいない、淋しい根無し草の方もあります。それでも心配要りません。イエスの言葉に留まり、そこに根を下ろすことができます。すると、どこにあっても全くの根無し草にはなりません。根であるイエスによって支えられるでしょう。イエスに繋がっていれば世界のどこに行っても友人、知人が生まれます。

  家族を持たない方々もそうです。神を父とし、イエスに根を下ろせば、そこに揺るぎない根拠が生まれます。「私の言葉に留まるならば、…真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という言葉はそういう意味も持っています。

  今日の所で、イエスは神を父と呼び、「私をお遣わしになった方」と語り、神を命の源としてこの方に「留ま」られました。そして、あらゆる時にこの方のなさることを見て行ない、この方から全てのものを受ると語っておられます。

  言葉を換えれば、イエスの存在は神との関係における存在。父なる神との関係において最もその命を発揮することがお出来になる存在。神との絶対的な関係に身を置かれる方だということです。

  私たちにおいても、キリスト教信仰というのは神との関係的存在として生かされることです。この関係性が曖昧になると、生きる足場が曖昧になりますから、当然思い煩いが増えていきます。集中性がなくなり、イライラして来ることもあります。

  あるいはニヒリスティックになったり、厭世的になったり、シニカル(冷笑的)になったり、反対に享楽的になったりもします。人の存在の根拠である神との関係が切れているわけですから、生き方が病んだり腐ることすらあります。

  聖書にマルタとマリアの話が出てきます。マリアはじっとイエスの話に聞き入っていましたが、マルタは接待のことで忙しく、イエス様に愚痴を言います。するとイエスは、あなたは多くのことで思い煩っていると言われ、「必要なことはただ一つだけである」とおっしゃいました。

  どんな人も、「必要なことはただ一つだけ」なのです。必要な欠かせないこととは、神との絶対的関係ですが、これがはっきりしてきますと、詩編に「わが心定まれり、わが心定まれり」とあるように、心が定まってきます。心が硬くなるのではありません。生活の焦点が生まれるのです。

  昨日の夕刊に、日本が金融危機にあった最も困難な時期に日銀総裁に抜擢された速水優さんのことが出ていました。まさに抜擢でした。5月に亡くなられましたが、あの難しい時期に批判の矢面に立ちながら金融システムの再建に奔走されました。

  それを支えたのが信仰であったと新聞は書いていました。「私は土の器」が口癖だったそうです。弱くて力はないが、信仰という宝を盛ることができる。総裁になったことも「神の召し」と信じ、神に託された使命を果たされました。教会から職場に直行することもあったそうです。国会に呼ばれると、「恐れるな、私はあなたと共にいる」というイザヤ書の言葉の掛け軸の前で祈って出かけたとのことです。神を座標軸にして生きられたのです。

  まさに必要なことはただ一つです。日銀総裁でも私たちでも同じです。すると心定まります。

         (つづく)

                                  2009年7月12日


                                         板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ヴェズレーの町に入る門-c。)