魔術師からキリスト者に

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                                                 魔術師からキリスト者

                                                 使徒言行録8章9‐25節

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  今日はペンテコステ聖霊降臨日です。2千年前のこの日、弟子たち一人一人に聖霊が降って、ユダヤ人を恐れて息を潜めていた弟子たちが街頭に出て福音を語り始め、教会が誕生して行きました。聖霊は弟子たちを新しく造り変え、勇気を授け、信仰と愛と希望をもって生かして行ったのです。

  その後、ステファノの殉教がきっかけでキリスト教に対し大迫害が起こり、使徒たちを除いて、数百人から数千人がユダヤサマリアの町々に逃げ、逃げながらそれらの町々で福音を語って巡り歩いたのです。

  大迫害に遭ってエルサレムの外に出てみると、そこには悲しむ人々、苦労する人々が大勢いることを改めて発見し、逃げながら、随所で福音を語って巡り歩くことになったのです。前に申しましたように、各地で、福音を必要とする民衆の発見です。福音の故に迫害を受けて苦しむ中で苦しむ人たちに出会い、悲しみを知る中で悲しむ人たちに出会い、試練をなめる中で試練をなめる人たちに出会った。そしてそういう人の友になった。そして、聞かれればその方々にキリストの慰めの福音、平和の福音、復活の福音を語ったのです。

  現在も同じです。高齢のため、仕事のため、また何かの不幸のために環境が変わり、変えざるを得ない場合がありますが、その場その場で、神は私たちを思いがけない仕方でお用いになります。環境の大きな変化で大変になっても、それを不幸と決めつけず、そこに恵みが埋もれていると信じて負って行けば、思わぬ発見があるでしょう。そういうことをこの迫害から学びます。

  さて、サマリアに降った中にフィリポがいました。彼は殉教の死を遂げたステファノと共に、初代教会の給仕係に選ばれた7人の1人ですが、彼もステファノに触発されて大胆に福音を宣べ伝える伝道者になり、ユダヤを去り、サマリアの町に行ってキリストを宣べ伝えたのです。

  サマリア人ユダヤ人は互いに敵対し、いがみ合う民族同士ですから、この伝道は当時驚くべきことでした。ところが、サマリア人たちが福音を受け入れて洗礼を受けるという事が起こったのです。キリストの福音が民族の隔ての壁を越え、民族和解の福音として広がり始めたのです。

  そのサマリアにいた魔術師シモンという男のことが、9節以下で語られます。「この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。」

  魔術とあるのは、人の目をだます巧妙な仕掛けや妖術などを指すものです。民衆の前で派手に不思議な業を行なって感激させ、自分でも偉大な人物と称して、一般人から名士に至るまで、「彼は大能の神の力を持っている」、神に等しい人だと絶賛され、魔術に心を奪われる人たちから相当の金儲けをしていたのでしょう。いずれにせよ、シモンは魔術によってサマリア人たちから注目される人物でした。

  ところが、フィリポがキリストの福音を説いて、男も女も洗礼を受けたのを知り、「シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」

  彼は人々を驚かし、賞賛されて注目を浴びていましたが、キリスト者のフィリポは自分に注目を集めるのでなく、復活のキリストを人々に説き、「ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」と一途にキリストを説いて人々に奉仕することで、素晴らしい事が起こるのを見て驚いていたのです。シモンは絶賛されて鼻高々となっていた。ところがキリスト者のフィリポは全く違う訳です。自分の利を求めず、自分の名も求めない。ところが、不思議な愛の業や、人々に希望を与える業がなされて行く。そのことを驚きつつ見ていたということです。

  フィリポは自分にないものを持っている。何だろう。出来れば自分も彼と同じ力が欲しいと思い、洗礼を受けて、いつもフィリポの後を付け回したのです。

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  ところが、大迫害の後なのに、サマリア人が福音を受け入れるに至ったと知って、ペトロとヨハネエルサレムから遣わされて来ました。だがサマリアの信仰者たちは洗礼を受けたが、まだ神の霊である聖霊を受けていなかったので、彼らにも聖霊が与えられるようにと祈り、「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」というのです。

  シモンはこの不思議な現象に酷く興奮したのでしょう。長年魔術で人を驚かして来たが、こんな事は生まれて初めて見る光景だったのです。ぜひ自分も、人々の頭に手を置けば、その人に聖霊が降るようになりたいと切に願ったのです。彼は洗礼を受けていましたが、その信仰は、いわば徴や奇跡を信じる信仰であり、キリストの福音は付け足しだったのでしょう。ですから、どうすればこんな不思議が起こるのか、その秘密を知り、自分も出来るようになりたいと思ったのです。

  そこでペトロに金を差し出し、「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と頼んだ。

  魔術や奇術は何らかのトリックがあります。こういうヤクザな世界では、その手口を弟子入りして師匠から学んだり、師匠から盗んだり、時には大金を出して買ったり、そこに自分独自のものを加えて演じるわけですが、彼は金で聖霊を授ける術も買えると思ったのです。信仰の奥義というのも一種のトリックだと、もしかしたらペテンだと、金で売買できるものだと考えていたのかも知れません。

  それでかなりの金を持って来て買おうとした。ところが、その金を見るや、ペトロの怒りが爆発したのです。「この金は、お前と一緒に滅びてしまえ。神の賜物を金で手に入れられると思っているのか。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれない。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」

  前の口語訳は、「お前には、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、私に分かっている」でした。この言葉は、口語聖書時代には、私たちの心を強く刺す言葉で、「洗礼は受けていても、君にはまだ苦い胆汁がある」と叱責されているような気がしました。私にとってこの言葉は長く心に留まりました。

  ペトロはシモンの信仰に問題を感じ、厳しく叱責したのです。信仰の奥義を金で得られると考える彼の腹黒い俗物性です。そのような信仰は偽り以外の何物でもありません。「お前には、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、私に分かっている。」えらい剣幕で叱られた。

  ただペトロの叱責には、厳しさの奥に隠れて優しさがあります。「だからこの悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心に抱いたことが、赦されるかも知れない」とあります。むろんその赦しは、真剣な悔い改めと祈りなしには決して与えられないという真実な思いが伴って、彼のことを思い遣る温かい心が感じられます。

  「腹黒い者」とか「苦い胆汁」という言葉は、ニガヨモギのような苦い悪意という意味です。「悪の縄目」の方は、悪のとりこになっているという事です。折角クリスチャンになったのに、まだニガヨモギのような悪意が腹の底にあり、まだ悪のとりこになって足を洗っていないという事です。これは、シモンが魔術や呪術やえせ宗教から足を洗っていない姿を指摘した言葉でしょう。

  人間というのは、真(まこと)の神を知らずに、神に抵抗して生きている間は、あるいはうわべは信じているが腹の底では神を舐めて、その分どうしても自分自身に頼ろうとします。シモンが魔術に染まっていたのは、不安だったからでしょう。しかし魔術に頼っても、本人はそれがトリックだと手の内を知っていますから不安は解消しません。だから一層魔術にしがみつき、「これはトリックではない」と一層強く言い張るのです。それを厳しい叱責でペトロに見抜かれ、彼はハタと気づいたのです。それが、「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください」です。

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  この個所の中心は、24節のシモンの答えだと思います。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」

  彼はこの時、初めてキリストの十字架やその復活を、自分自身や自分の生き方との関係で考えたのです。自分のような者のために十字架で死んで下さったというイエスの愛が胸に迫って来た。今、彼は、信仰も人から称賛される何ものかだとか、得をする何かというのでなく、ましてや魔術のように人々を騙すトリックの一種と考えるのをやめて、謙虚に神のもとに自分を置こうと、主に執り成しの祈りを求め、主に祈って下さいと願ったのです。

  祈ってもらって、彼は初めて平安な思いになったでしょう。キリストのもとに自分を置いた時に、神の清い霊が降ったのです。誰かに聖霊を降らせるというようなことより格段に大事な、自分自身の上に神の癒しの霊、恵みの霊を頂いた。聖霊が降って謙遜にさせられ、平和を得たのです。ご利益信仰から足を洗ったでしょう。

  私が今、24節のシモンの答えがこの個所の中心だと申しましたが、次のような事です。もし今日の個所が、魔術で人心を惑わして来たシモンへの一方的な非難や批判だけなら、この個所は魔術者たちを単に物笑いにしたり、白い目で見る材料にしているだけでしょう。私自身はこれ迄、シモンのような人間への批判としてこの個所を読んで来ました。

  だが今は少し違います。なぜかと言えば、この時、彼自身が悟ったのです。自分にはニガヨモギのような苦い胆汁や悪意があり、腹黒さや悪のとりこになっている事に甚(いた)く気づかされて、「私はこんな愚かな人間でした、そこまで最低の卑しい存在でした。しかし今、そういう暗い、暗黒の谷底から主を見上げ、主の赦しを授けられて感謝いたします。このような存在をも心にかけ、助け出して下さる方。イエスこそ偉大なる方、尊ばれるべき方、私は一切の魔術を排し、ペテンを排し、このお方の僕として生きたいと思います。」こう語ってキリストの僕として生きて行くなら、彼のかつての腹黒さも悪の縄目に縛られていたことも、ペテンに生きていたことさえ大いに用いられて、神の栄光が明らかにされるものとなったでしょう。その決意が24節です。彼は福音の前に砕かれて身を低くしたのです。彼はこうして救い出されたのです。

  何ら躓きや欠点のない人より、彼は人生の苦さや渋さを知る、味のある信仰者として生きることになったでしょう。憑き物が落ちたかのように、魔術師シモンからキリスト者シモンになって、このサマリアの町で暮らしたでしょう。

  彼もイエスに愛されているのです。彼も神の恵みの選びから落ちていません。彼の腹黒さも、悪意も、名誉欲や出世欲も、彼の欲深い心の毒も、キリストの霊は彼の中からそれらをえぐり出し、吸い取り、神の執り成しを求める信仰者に変えて行った。このこと以上に、神に栄光を帰し得ることがあるでしょうか。

  こんな人間はダメというのでなく、神は石ころからでもアブラハムの子孫を創り出されるのです。聖霊は人々を新しく創り出す創造の霊です。天地創造と同じ力で、人を新しく創造します。

  今日はペンテコステですが、主の霊は2千年前も今日の私たちにも、同じように降って下さるのです。私たちはこの聖霊を祈り求めて生きたいと思います。

  神は迷い出た一匹の羊を探し出すために来て下さいました。イエスは健康な人や正しい人でなく、罪人を招くためにおいで下さったのです。

      (完)

                                            2019年6月9日

                                            板橋大山教会  上垣勝