愛に命をかけた男 (上)


  
  
  
                                                
                                              フィリピ2章25-30節


                                 (序)
  今日は、「愛に命をかけた男」という題で、この夏の暑さに拍車を掛けるような暑い題です。しかし、愛には熱い愛もありますが静かな愛もありす。また、聖書の愛は上っ面のものでなく、海のような深さがあります。それは神とキリストを源泉としているからです。

  ある人の文章に、「私の考えていた愛は、疑いもなく排他的です」(H.ナウエン)とありました。愛が排他的であるというのは、独占したいからです。また自分だけを愛してもらいたいからで、他に目を向けてもらいたくないからです。

  確かに妻が、他の男に目を向けようものなら夫は不機嫌になるでしょうし、夫の場合も同じでしょう。それは愛でないとは言いませんが、夫婦の愛、男女の愛だからです。しかし、キリスト教の愛は異性の区別を超えて人格を愛する愛です。それはキリストの十字架の愛から出て来る愛です。

                                 (1)
  さて、パウロはフィリピ教会の問安のためにテモテを遣わそうとして、彼がどんな人物かを紹介した後、今日の箇所に入って、エパフロディトをフィリピに送り帰そうとしていることを伝えています。

  エパフロディトは、パウロにフィリピ教会からの贈り物を届け、また獄中のパウロを助けるために遣わされた人物です。パウロが、「彼は私の兄弟、協力者、戦友であり」と書いていることから、エパフロディトは、青年テモテより年配の伝道熱心なキリスト者だったと思われます。彼は投獄されているパウロの所に来て、長期にその地に留まり、何かとよく助け、福音の証のために一緒に闘い、パウロが窮乏している時によく奉仕した人物のようです。かなり筋金入りの信仰者だったかも知れません。

  だが、協力者として働くうちに、「瀕死の重病にかかり」ました。パウロは獄中ですし、フィリピから2千キロか3千キロ離れた旅先です。さぞ心細く不安だったでしょう。しかし、パウロはエパフロディトの心細さについて何も書いていないところから、彼はそこまで重い病であるのに、不安や不平、また後悔を一言も漏らさず、旅先で生涯を閉じるかも知れないのに、心は平和に満たされていたのでしょう。一切をキリストに委ねて、回復を待っていたのでしょう。

  私なら旅先でそんな目にあったら、どうするだろうと思います。往生際が悪いので、もっと高額な旅行保険を掛けておけば良かったと悔やむかもしれません。更に、虫の居所が悪いと、誰かを恨むかも知れません。

  ところが、彼は自分のことより、自分の病がフィリピの人たちに知れ渡って「心苦しく思っている」と、パウロは書いています。彼は本当に信仰に生きる、実に謙虚な人物です。

  その彼を神が憐れみ回復させて下さったのです。奇跡的な回復でした。彼はどんなに喜んだでしょう。パウロは、「神は彼を憐れんで下さいました。彼だけでなく、私をも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにして下さいました」と述べました。

  パウロは、彼のことで責任を感じていたのです。重宝がって、長く引き止めたのかも知れません。エパフロディトはそこまでパウロに尽くし、奉仕的であったのでしょう。そういう中で奇跡的な回復を遂げたのです。

  ヤコブ書に、「義人の祈りは大きな力があり、効果がある」とあります。義人の祈りは聞かれることを、改めて実感したに違いありません。

  先週、私たちの姉妹教会であるM教会に赴任されたE先生の就任式がありました。そこでも「奇跡」という言葉が数多く聞かされました。M教会が探していた難しい条件にピッタリの方が見つかったからですし、E先生の方も、神学校の教授たちからそんな条件では無理だと言われながら、大企業に勤めつつ招いてくれる教会がないか探しておられましたが、先生の方も難しい条件を出して諦めかけていた時に、願いが合致する教会が現れたそうです。私たちはそれを聞いていて皆、本当にこれは奇跡だと思いました。「求めよ、そうすれば与えられる。門を叩け、そうすれば開かれる」とありますが、門が開かれ与えられたのです。しかも引退されたO先生は熱心な祈りの人ですが、E先生も深い祈りの人だそうで、教会の方々は願ってもない人だと感謝しておられました。

  昨年、O先生は引退を表明されても、その後の住いが見つからず困っておられました。それをお聞きして、私たちの教会の2階で、住いが見つかるまで住んで頂こうかと相談していました。ところが160倍の倍率で都営住宅が当りましたから、これも奇跡でした。以前から何度も申し込まれましたが外れていましたが、最もいい時期に当たったのです。

  これら一切のことから、私は、「義人の祈りは聞かれる」ということを実感し、神はおられるということを思いました。「全てのことには時がある」とコヘレトの言葉にありますが、神は丁度いい時に、最善のものを、神を求める人たちに与えて下さるのです。

        (つづく)

                               2009年8月2日

                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真:オルセー美術館で。 )