渇く人は使命を持つ (下)


  
  
 
                                              
                                              ヨハネ7章37-39節
  
  
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  テゼ共同体の歌に、「命の水を求め、夜の闇を急ぐ。渇きこそが私たちを導き、前進させる」という歌があります。ソーニャの渇きはそうでした。その渇きは、「渇いている者は私の所に来て飲みなさい」と言われたお方の所に行って癒されていたから、彼女は夜の闇にあり、渇きながら、その渇きが、渇きこそが彼女の人生を前進させたのです。

  先週、この箇所を考え続けていた時、妻が横で声を出して英語を読んでいたんです。何気なく聞いていましたら、その中に、「役者として有名になるには、渇望する心がなければならない」というような言葉がありました。渇望が前進させていくのです。確かにそういう渇望が大切だと思います。

  ただ渇望が的を外れると、とんでもない所に行ってしまいます。先日マイケル・ジャクソンという人が突然死にました。私は彼の歌う映像を見たことがありませんでしたが、初めて先日インターネットのユーチューブというので、亡くなる2日前にロンドンで行なったリハーサルのビデオと、以前のライブ演奏のビデオを見ました。

  私の直感は間違っているかも知れませんが、ただ、見て驚いたのは、音楽と歌とダンス、全身が弾丸のように一体になって表現する姿は刺激的で魅力的で、もし若い時にライブ演奏を見れば熱狂的なファンになりそうなほど惹きつけられました。全身、全存在が激しい渇きをもって衝動的、本能的に歌っているという感じでした。アレは多くの人に訴えます。

  しかしこれを長く続けるには、相当の精神の集中、そのためにかなりな量の覚醒剤の服用、その他、精神を高揚させる刺激的な生活があったのでないかと直感しましたが、どうでしょう。ここ何年間かのマイケル・ジャクソンの身辺に起こった暗い影は、それを示唆している感があります。人々に衝撃的であるために、その渇きは的を外れ、本人自身が異常なもので刺激され興奮させられねばならなかった筈です。

  しかし、イエスは「渇く人は誰でも、私の所に来て飲みなさい」と言われました。渇きが正しく的を射るとき、その渇きは、私たちを正しく前進させるでしょう。

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  私が今イメージしているのは、渇く人は使命を持つ人だという事です。

  先程言いましたが、世界には極貧の中にある私たちの兄弟姉妹、私たちの家族がいます。正義を奪われて忘れ去られている人たち、ミャンマーのアン・サン・スーキー(Aung San Suu Kyi)さんは監禁されて5千日が経ちました。無実な中で苦難を経験している人たち、世界には有り余るほど多くの食料があるのに、それに与れない人たち。

  私たちは、人間は皆、公平に扱われなければならないと考えているのではないでしょうか。そう考え、その渇きをはっきり持つ人たち多くが生まれて欲しいと思います。またそういう人たちは、今後も長くそれが解決されなくても、恥じたり、恐れてはなりません。本当に強く渇くなら、その渇きはたとえ夜の闇の中でも前進する力を与えてくれるでしょう。

  イエス・キリストは、「私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と約束されました。生きた水とは、ほとばしって流れる水のことです。死んだ溜まり水ではありません。生き生きと元気にほとばしって流れている水です。それが川となってその人から流れ出す。今度は、あなたが人を潤す人になる。希望を与える人になる。そう約束されたのです。

  長いキリスト教の歴史を通し、キリスト者はこれまで色々なものを発明して来ました。無料で医療を施すというとんでもないことがなされたのは、西暦300年代の聖バシリウスの時でした。最近知ったことですが、ローマが最も栄えた時代、その繁栄は奴隷が支えましたが、キリスト者が奴隷を解放し、彼らと物を分かち合って生活しています。何故そんな積極的な役割をキリスト者は果たすことができたのでしょうか。西暦100年代に書かれたある手紙にはこうあります。「神が彼らを任命される地位は非常に貴くあるので、彼らはその地位を決して無駄にしなかった。」「任命される地位」と言っても、高位の地位だけを言っていません。日常的な地位、日常的な仕事です。掃除夫でもいいのです。彼らは日常の仕事を神から頂いた貴い地位と見て、感謝をもって、そこで神の栄光を表わそうとしたのです。

  私たちが今いる所は、最も良い地位だと考えるのです。神がおかれた最高の場所、地位だと。それを感謝するのです。不平を言うんじゃあありません。その場所を感謝し、そこで神の栄光を表わす。そういう生き方です。

  ある方の証しをお聞きしたことがあります。4歳の時に両親が亡くなりました。人生を受け入れることはとても困難だったそうです。しかし、やがてその傷は、キリストが入って来て下さる入り口になり、道になったそうです。むろん傷の痛みや悲しみは消えることはありません。しかし、傷が自分の力になったと言っておられました。

  渇きをもってキリストに行く時、渇きが生きた水となって流れ出すことへ転換されて行きます。私たちがそれをするのでなく、キリストが変換して下さるのです。辛く苦い経験があっても決して受身になったり、逃げる必要はありません。キリストにおいて、むしろそれらが建設的に用いられることが可能なのです。

  暫らく前に、アメリカのトラピスト修道院の話をしました。彼らは非常に厳格な規律をもって日々祈りと労働をしている事をご紹介しました。その続きのような話ですが、彼らは時に修道院の奥深くで断食をするそうです。ある時にした断食は、徴兵を拒否して刑務所に入れられた仏教の僧侶たちに連帯して断食をしています。キリスト教の修道士たちが仏教の僧侶のために断食をする。凄いです。また修道士たちは抗議の電報を打つこともあるそうです。

  私たちは内面的であっても、内省的であってもいいのです。今の時代はそういう方(かた)が必要です。そして、キリストにある内省こそ社会と深く関わる力を生むのです。イエスの生活は祈りの内省と社会での活動の生活でした。そのバランスを持った生き方です。祈りなしには、真の活動は出てきません。こま鼠のように忙しく動き回るだけです。

  自分の利益のための活動は出て来るでしょう。それは欲望に根ざしているからです。しかし、愛の活動、イエスのように自分を与える活動は出てきません。自分を神に委ねる活動が出てくるには、祈りにおいて自分を委ね切らなければなりません。

  私が祈りを強調するのは、祈りこそ活動を生み出す源であるからで、祈りにおいて、「渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい」と言われるお方の所に行って命の水を飲むのです。そして渇いた魂を潤され、命を授けられ、自分のための活動でなく、神の栄光のために活動する力を得ることができるからです。

  もう一度、37節、38節を読んで終わります。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」

         (完)

                              2009年7月5日
  
                                         板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ヴェズレーの町に入る門-b。)