あなたはどこにいるのか

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                                                  創世記3章1‐8節

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  今日の話の題は、「蛇の誘惑」とありました。創世記11章までは、童話かおとぎ話のような話を通して、大事な何かを言おうとしているのです。蛇がおしゃべりできるはずはないし、神様が園の中を歩かれる音が聞こえたなんておかしいです。でも、この話を通して言おうとしているのは、ウソじゃない、本当のことです。しかも、何か非常に深い本当の事を言おうととしているのです。

  「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」「賢い」ってどんなことでしょう。頭が良いことですか、すらすら算数の問題が解けたり、百人一首がすぐ覚えられる。そうですね。

でもここで言われている、「賢い」というのはズル賢い事なんです。悪賢いこと。どんな風にズル賢いのでしょう。

  蛇はこう女に言いました。女というのはアダムの奥さん、エバさんのことです。蛇はエバさんに、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」これってどこがズル賢いですか。

  「どの木からも食べてもいけない、などと。」「などと」という言葉を入れている。「園のどの木からも食べてはいけないと神は言われたのか」だと、神は悪い人だとは言っていません。しかし、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言ったんだ。

  「などと」という言葉を加えることで、神様は本当にそんな酷いことを言ったんですか。神様ってとんでもない方ね。意地悪ね。それって、おかしいんじゃないと思わせて、神様からエバさんを引き離そうとしているのです。

  蛇を見たことがありますか。動物園で見たの?東京では余り家の付近で見ませんね。蛇は、黙ってそっと忍び寄って来ます。小さな頭がちょっと隙間に入れば、太い胴体もそこから入って来ます。

  前にいた教会に幼稚園がありました。100人程の子どもたちが通って来ました。その教会幼稚園で鳥かごに入れてカナリアを飼っていました。もの凄くきれいな声で囀るのです。ところがある朝幼稚園に行くと、シンとしているのです。静かです。まだカナリアさんは寝ているのかなと思って近づくと、何と鳥かごの中に蛇が居て、カナリアの羽があちこち散らばって、カナリアの姿がありません。蛇が籠の細い隙間から入ってカナリアを食べたのです。でもすっかりお腹が大きくなって、入って来た隙間から出れなくなっていたのです。

  今私がお話しているのは、ちょっとの隙間があると蛇は入って来るということです。蛇はスキがあり、油断すると入って来るのです。今、エバさんの心に隙間があって、そこからいつの間にか入って来て、親しそうにエバさんのことを心配しているかのように話しかけたのです。

  するとエバさんは蛇に言いました。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

  エバさんは、蛇が親しそうに来て、味方になって親切に忠告してくれるものだから、気持ちがゆるんで、うっかり大げさに言っちゃった訳です。「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」親切そうな蛇の気を引こうとしたのでしょうね。

  神様は、食べてはいけないと言われたが、触れてはいけない、触っちゃいけないとは言われなかったのに、ちょっぴり付け足したのです。

  それと、神様が言われたのは、アダムさんでした。エバさんはアダムさんから聞いただけです。でも、自分が聞いたかのように言っちゃった。私たちって、ちょっとだけごまかすことがあります。ちょっとだけごまかして得しようとしたり、得意になろうとします。

  もし蛇がアダムさんに聞けば、アダムさんは正しい答えをして話はそれで終わったでしょう。だから、蛇はアダムの奥さん、エバさんに聞いたのです。エバさんは、自分は何でも知っていると知ったかぶりをしたかった。心にスキがあったのです。「食べてもいけない、触れてもいけない。死んではいけないから」と事実を曲げて言っちゃった。

  もうここで蛇の首が籠の中に入っています。 すると蛇はすぐ、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言ったんだ。

  神様はズルイって言っているのです。園の中央の木の実を食べれば、あなた方人間が神のようになることを、ご存じなのです。神のようになられると神様が困る。それを知っているから禁止されたのですと言ったのです。

  ここで、蛇は何をしているのでしょう。エバさんを神様から引き離そうとしている。神様との仲を裂こうとしている。

  こう言われて、もう一度よく木の実を見ると、前より一層おいしそうに見えたし、賢くなるように輝いて思えたのです。そこで、食べたいと思った。そう思うともうよだれが出て来て、欲しくって仕方がありません。うずうずして、止めようとしても体が木の実の方に引き付けられて行きます。

  そこで手を伸ばしてちょっとだけ触った。ところが触っても何も起こりません。エッ!何も起こらない。大丈夫なんだ。蛇さんが言った通りなのかも知れない。

  それで真っ赤に熟れた木の実を一つ取ってかじったのです。でも死ななかったのです。でも神の命令を破ったから怖くなりました。それで慌てて、一緒にいたアダムさんにも渡したので、アダムさんも食べたのです。1人だと恐ろしかったが、2人だと幾分か安心でした。アダムさんの方はなぜ食べたのでしょう。「自分は食べない」と言ったら、エバさんに嫌われると思ったからです。いつも味方でいたかった。ケンカをしたくなかった。本当はケンカをしなければならない時はケンカをすべきなのですが、エバさんの魅力に負けたのです。こうしてアダムさんもエバさんも、神様に背いたのです。神様の命令を破ってしまったのです。

  こうして蛇は、まんまとエバさんもアダムさんも神様から引き離したのです。神様との仲を裂いた。2人は神様から隠れざるを得ません。

  この蛇はサタンだと言われています。サタンは、私たち人間と神の仲を裂こうとしたのです。そして人間と人間の仲も裂くのです。神様から私たちを遠く引き離したのです。

  しかし私たちはどんなに神様から引き離されても、イエス様は私たちをもう一度神様に近づけて下さり、神様から愛されるようにして下さるのです。そのためにイエス様はこの世に来て下さったのです。皆さんへの話はこれでおしまいです。

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  さて、アダムとエバは木の実を取って食べたのです。すると、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」というのです。いわゆるパンツの起源と言われる個所です。

  2人の目が開くと、神のようになったのでなく、それは蛇のごまかしで、眼が開いて善悪を知った結果、自分の裸の姿を知ったのです。これには2つの意味があります。

  1つは、自分は裸だ、何も持たない存在だ。一文無しだ。哀れな自分の姿を知ったという事です。確かにもしすべての虚飾を排して自分の姿を顧みれば、人間の本来の姿は何も持たない者です。持っていると思っていても、ほぼ何も役立たないものばかりです。頼りにしていたものも最後は頼りになりません。

  エデンとは楽しみ、喜び、楽園という意味でした。だが、今や喜びは去り、平和は失われ、不安に駆られ、哀れな自分の姿に戸惑ったのです。自分を恥じたのです。自分が受け入れられず、自分と和解できなくなったのです。

  青年たちが、初めは人間関係のもつれなどから、他人に傷つけられたり、思いがけず人を深く傷つけてしまったり、その結果、学校や職場が嫌になり、そんな自分を受け入れられずに落ち込んで、すっかり外出もできなくなり、人と会うのが怖くなる事があります。それが引き金で引き籠りが起こったりします。数か月ならまた復帰は出来ますが、長く何年と経てば社会の歯車と合わすことが困難になるという場合です。現在では精神科にかかったりします。しかしその根本的な解決は、人は誰しも裸だと知り何も持っていないことを知って愕然とするが、また自分の愚かさにも打ちのめされたりもしますが、それが人間というものの素の姿だと知ると、そこから救い出される可能性が生まれます。自分だけでなく人は本来誰でも裸だと知り、何も持っていないことを知って、そんな自分だけれどイエス様は愛しておられることを知る。決して捨てられないことを知る。そこから問題が解決されて行くことがあります。単に薬の服用だけではなかなか解決しません。

  もう一つの意味は、アダムとエバは目が開いて自分の素っ裸の姿を知って、恥ずかしさのあまり、「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」というのです。恥部をおおったのです。あるいは、都合の悪い所を隠そうとしたのです。

  しかし、聖書が告げるのは、人間がどんなにうまく隠そうとしても、隠し切れないという事です。それが「イチジクの葉を綴り合わせて」という言葉で示唆されています。イチジクの葉っぱは、最初は新鮮で大きくパリッと張っていて隠せるでしょう。だがやがて萎れます。しぼんで来ます。するとたとえ一旦は罪や恥部を隠し得ても、やがては見えるのです。人間のなすことは必ずボロが出て、足がつきます。大統領だろうが、首相だろうが、議員だろうが、次官だろうが、院長だろうが、庶民同様、皆イチジクで隠しているだけであってチョボチョボです。

  人間はイチジクの葉っぱで隠すしかできません。だが、そういう生き方をしていては必ず終わりが来ます。

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  さて、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。」涼しい夕風がさわやかに流れ始めた頃、園の中に衣擦れの音でしょうか、サンダルの音でしょうか、誰かが近づいてくる音が聞こえて来ました。すると、「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」と。

  神は、エバでなくまた2人でなく、アダムだけを呼ばれました。神はアダムに、園の中央の木から取って食べるなと命じられたからです。それでアダムの名を呼んで、「あなたはどこにいるのか」と尋ねられたのです。

  「あなたはどこにいるのか」という問いには、アダムへの心配と愛があります。あなたは神の顔を避けているが、今、どんな状態にあるのですか。どんなところで悩み、苦労し、何を考え、何を恐れているのですか。あなたはなぜそんな所で、息を潜め、私を避けて隠れているのですかという問いです。

  私たちにも、あなたは今、どこで悩んでいるのですか、何に躓き困っているのですかと、神を避けている私たちを案じて尋ねておられるのです。

  そしてこの問いは、あなたは、神の顔を避けて生きていますが、その生き方では、次々と試練が起こり、悩みが尽きず、風に吹き飛ばされる木の葉のようになってしまうでしょう。あなたか神の作られたものとして、元どおり、私を仰いで生きなさい。そうすれば、正しい進路を見つけて進むことが出来ますと、彼を案ずる心が含まれています。むろんこの愛はエバへの愛でもあります。

  「あなたはどこにいるのか。」私の顔を避けず、私の顔を仰いで生きなさいという事です。たとえ一時的に、誘惑の手に落ちたにしても、今、再び、私の顔を仰げばいいと言われるのです。私から身を隠さず、私から離れず、私を受け入れて生きなさい。

  人は誰でも、神を仰ぐ時には、一抹の不安が起こります。裸の姿を見られて、厳しく裁かれはすまいか。現在だけでなく、過去の生活まですべてが神の光に照らされてしまい、厳しい事が起こるのでないかという不安です。しかし神は愛です。愛の内に留まる人は、神の内に留まり、神もその人の内に留まって下さるのです。愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを取り除くからです。

  神には赦しがあるので人に尊ばれるのです。あなたが神を仰ぐ時、再び新しい一歩を歩み始め得るでしょう。神の顔を避けてはいけません。

  「あなたはどこにいるのか。」神は、神を避けて闇の中に失われようとする人を探しておられるのです。「あなたはどこにいるのか。」これは、神の愛の捜索と呼んでもいいでしょう。人は山で道に迷って遭難するより、もっと頻繁に日常生活や社会の中で遭難しがちな者です。

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  主なる神が、「どこにいるのか」とアダムを呼ぶと、彼は、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と答えました。そこで神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われました。するとアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えた。主なる神は次に女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」こんな問答が書かれています。

  アダムはエバに責任転嫁をしました。それだけでなく、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と語って、神であるあなたこそこの女を連れて来られたのです。元々の責任はあなたにありますと、神にさえ責任転嫁します。次に神がエバに尋ねられると、彼女は、「蛇がだましたので、食べてしまいました」と蛇に責任転嫁したのです。

  このように2人とも他に責任転嫁し、他人や神に責任をなすり付けて生きようとするのです。私たちの罪は責任転嫁にあります。自分の非を告白しない。認めない。少しでも関係を見つけて責任転嫁する。それが的外れなのです。的外れとは罪のことです。そんなことをしてホッと一息つけても、自分の問題は少しも解決しません。

  しかし翻って、イエスは人間の罪の一切をご自分の責任として負うために来て下さったのです。全人類の罪をご自分にひっかぶって死んで下さったのです。

  イエスは新しいアダムだと言われます。古いアダムは死ななければなりません。責任転嫁して生きている古いアダムである自分が死に、責任転嫁をやめて自分の十字架を取ってイエスの従って行く、新しいアダムが、私たちの中に生まれて下さるでしょう。

  責任転嫁をやめない限り、新生活は始まりません。新しい一歩は始まらないのです。誰がどう言ったこう言ったとか、蛇が騙したので食べましたではなく、自分が神の命令に背いて食べてしまった。そのことを認める所から、私たちの新しい一歩が始まるのです。

        (完)

                                            2019年6月2日

                                            板橋大山教会  上垣勝

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