雄弁な足あと (上)


  
  
  
  
                                              
                                              フィリピ2章19-24節


                                 (序)
  今日は「雄弁な足あと」という推理小説のような題です。足あとがどうしてそんなに雄弁なんでしょう。自分がたどった足跡は何を物語るのでしょう。

                                 (1)
  今日の最初に、「私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので…」とありました。

  パウロという人は、十分自分の弱さを知る人であったと思います。矢でも鉄砲でも持って来いというような強腰の人でも、強がりを吐く人でもありません。率直に、自分の脆(もる)さも知って主に助けを求め、また仲間にも助けを求めました。自分は信仰者だから、自分は強いとか、どんなものにも負けないとか、弱みを見せないとか、そんな強がりをいう人間ではありません。現実をありのままに素直に見ることができた人です。

  キリスト教がもし現実をありのままに見ない宗教なら、2千年に亘って世界の人々の心を捕えるものにはならなかったに違いありません。威嚇したり、脅したり、力でねじ伏せようというのは最も信仰とは遠い世界です。力でなく、キリストが実際に働かれており、キリストのご支配がなって行くのです。

  獄中のパウロは、フィリピの教会のその後の様子を知って力づけられたいと思い、青年テモテを使者として遣わそうとしました。「力づけられたい」とは、単に安心したいとか、慰められたいということではありません。自分は獄中にあるが、復活のキリストの働きは別の所では今も前進していることを知り、キリストは今も生きて働いておられることを確信したいという事です。

  キリストの働きは全世界を包んで進んで行きます。一部分で困難なことが起こっても、他の局面や場所では進んで行きます。日本ではこうでも、他の国では今も前進していることがあります。私が時々、海外のことを申し上げるのは、日本だけではキリストが今どう働いておられるのか、よく分からなくなることがあるからです。

  個人的にも、あることでは心配は尽きないが、別のことでは神が生きて働いておられることが見えます。その全体を知ると私たちは力づけられます。善の力は、悪の力よりもはるかに強い影響力を持っています。善は決して悪に負けることはありません。闇は光に決して勝ちません。サタンは神に決して勝てません。今日、人は皆そのことを知る必要があります。

  パウロはフィリピの教会の有様からそれを知って力づけられたいというのです。

                                 (2)
  テモテはこれまで何度か、パウロと一緒にフィリピ教会を訪ねたことがあったでしょうが、今は1人で遣わされます。従者として行くのと、代表で行くのとではまったく違います。それでパウロはテモテを改めて紹介したのでしょう。

  「テモテのように私と同じ思いを抱いて、親身になってあなた方のことを心にかけている者は他にいないのです」とありました。パウロは青年テモテを連れて、何ヶ月、あるいは何年にも亘る長い何千キロかの伝道旅行をしましたから、彼を熟知しています。また、彼に全く信頼を置くようになっていました。テモテの方は、パウロからキリストを信じ、キリストに従うとはどういうことかを生活を通し、身をもって学んだでしょう。

  キリスト教は生活の仕方が大事です。むろん信仰の教理的な内容はあります。しかし生活の仕方にまで信仰が受肉しないなら何の力にもなりません。皆さんが今教会に身を置いておられる、この具体的なことが大事なのです。肉体をもって神の前に実際に出る生活、これがあって信仰は生きた力になります。パウロの書簡を見ると、随所に、彼はキリストにあっての生活の仕方を教え、私に倣う者になりなさいと語っています。こうしてテモテは、パウロと「同じ思いを抱いて」伝道に励み、22節にあるようにパウロと共に「福音に仕え」、人々を愛するようになったのです。

  そこで、テモテのように「親身になってあなた方のことを心にかける者は他にない」と語ります。羊飼いは、一匹一匹の羊のことを心にかけているそうです。5百匹いようが千匹いようが、それぞれに名前を付けていて、名前で呼ぶそうです。彼らの性格を知り、一匹づつ心にかけてこそ、頼もしい羊飼いになるそうです。

  羊飼いとは面識はありませんが、私はリンゴ農家のクリスチャンを知っています。彼は、その手入れは自分の子どもを育てるのと殆ど同じだと言っていました。同じリンゴ畑でも、一本一本木の性格も違うし、年齢も、甘さも、酸っぱさ加減も、木の具合も違うそうで、一本一本の木に話しかけながら栽培していると言っていました。人間は目をかけてもへそを曲げる人がいますが、木は真面目に応えてくれるそうです。

  「心をかける」、目をかけるというのは、どんな分野においても大切なことです。

  先程教会堂にお入りになって驚かれたことでしょう。こんなに枝振りのいい、たわわに実ったぶどうの鉢植えをIさんが持って来て下さいました。ご主人が作られたそうです。教会に飾ろうとして、心をかけて作らなければできないと思います。

  この間、夜この会堂のそこの電灯のスイッチをつけましたら、スイッチがパチパチ火を放ったんです。思わず消して、暫らくしてつけたらまたパチパチでした。恐かったですね。古くなって、窓の鍵が最近、力を入れないのにポキッと折れました。真鍮ですが脆いものです。人間と同じように、真鍮も時間が経てば見事に劣化します。私も最近劣化しつつありますし。

  そのことを何かの折に、私の劣化でなくスイッチのことをです、お話ししましたら、Nさんのご主人が、「心にかけて」下さっていて、スイッチを直しに来て下さいました。素人では直せませんと、近くの電気屋さんに言われていましたから、本当に有難かったし、安心できました。

  「心をかける」というのは、そのために時間をかけることです。お家からここまで来られて、スイッチの部分を外し、何度も部品を買いに走って下さったそうです。そして工夫して直すのに、行き帰りの時間も足せば最低3時間はかかったでしょう。「心をかける」とはこうだと思いました。感謝したいと思います。

  「心をかける」とは、どんな場合もそのために心を傾け、時間を費やすということを意味します。しかも、テモテは「親身になって心をかけ」ていると、パウロは紹介するのです。

         (つづく)

                                  2009年7月19日

                                         板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、パリ・オルセー美術館の前で。)