突きぬけた喜び (下)


  
  
  
                                              
                                              マタイ6章1-4節
  
  
                                 (2)
  イエス様は今日の所で、面白い言い方をされました。「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」右手が行なうことを、無論左手は知っていますよ。違います?もし、左右の手の連絡がうまく取れていないなら、脳に異常がある筈で、皆さん、直ちに脳神経外科に行かなければなりません。ほっといちゃあいけません。手遅れになりますよ。左右の指を近づけて、このようにずれる時もやっぱりそうではないでしょうか。

  だが、イエスは、「施しをする時は、右手のすることを左手に知らせてはならない」と言われました。自分がした善いことに有頂天になって、心の中で繰り返して反芻していちゃあならない、という事でしょう。「あなた方は地の塩、世の光」であるとおっしゃったイエスは、弟子たちと彼らを取り囲む群衆に、私たちが陥りやすい過ちを、醜い生き方を鋭く見抜いて教えて下さったのです。

  自分を分析してみると、右手のしたことを左手に知らすのならまだしも、右手のした以上のことを左手が宣伝している場合もあるんじゃあないでしょうか。吹聴という言葉がピッタリの時です。

  今日は礼拝後に、久し振りに三浦綾子文学読書会があります。今日取り上げる作品ではありませんが、三浦さんの「海嶺」という作品は、愛知県の知多半島から船出した漁師たちが遭難して、何か月も漂流してカナダに上陸し、やがてヨーロッパにも渡りました。その3人を主人公にしたものです。江戸時代の末期に、中国において聖書を最初に日本語に翻訳したギュツラフという人がいましたが、3人はギュツラフの翻訳を助けます。そこがクライマックスです。

  そのところでギュツラフがパーカーという医師と話す場面があります。

  ギュツラフは自分がしてきたことを述懐しながら、今日の箇所を引用して、「私は右手で福音のトラクト(ちらし)を配りながら、左手で大きな罪を犯していたのです」と言います。彼は宣教師ですが、同時にイギリスの商務省の役人でもありましたから、悪いこと、罪だと知りながら政府の方針に従わなければならないことがあったからです。人には言いにくい、矛盾した自分の姿を彼は皆の前でしゃべるわけです。

  すると、すかさずパーカーが、「イエスは右手でした良いことを、左手に知らすなと言いましたが、私たちは左手でした悪いことを、右手に知らせまいとして、必死です」と言って周りの人たちを笑わせる場面があります。パーカーは自分にもある偽善的な医者の姿を、ユーモアを込めて語るわけです。手術が失敗したり、診断が間違っても、失敗とは決して言わないで、別の言い訳をして隠している自分だというのでしょう。しかも、必死に隠している自分の心を、見破られないように。真に迫っていて、三浦綾子さん独特の、ハッとさせる場面です。

  自分のした善行を、いい気になって繰返して味わうなという事も、左手のした悪行を右手に知らせまいとして必死になっているというのも、本当に私たちの姿を言い当てていると思います。

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  さて、イエスは、「左手に知らせるな」と言った後、それは「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と言われました。

  ここに浅い生き方から、深い生き方に向かう転換点があります。言葉を代えれば、「突きぬけた喜び」に向かう転換点です。人に見てもらおうとか、気に入られようとかでなく、神に向かって生き、神との関係で祈り、働き、労し、施しをするあり方です。人の価値評価を気にせず、隠れたことを見ておられる永遠なるお方の前に身を置く生き方です。

  イエスご自身、権威を振りかざす律法学者やファリサイ派に直面された時、いつも永遠なる父なる神の前にご自分を置いておられました。しばしば淋しい所に出て、ひとり祈られたのはそのためでした。十字架上においても父なる神の前に出て、父なる神に祈られました。ですから、その生き方は、人間が汲みつくせない程の深いものになり、「敵をも愛する」恐るべき愛の深さをお教え下さることにもなったのではないでしょうか。

  隠れたことを見ておられる父。このお方に集中して行く時、自我の壁が破られ、突きぬけた喜びへと導かれます。それは生き方の深まりにも続いていきます。

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  短歌を作る方で、雨宮雅子さんと言う方がおられるようです。この方はキリスト者ですが、「悲神」という歌集のあとがきに面白いことを書いておられます。「若い日に洗礼を受け…額に聖水が触れていらい、私は、人間のからだにはただ一つ、浄い場所があると思ってきた。額が明るむ。しかしそれは、私の心までが明るむというのではない。あやふやな一小存在の、罪深い領地のなかの聖なる異国。そのような異国を私自身の額とするゆえに、神に遠ざかりまた近づこうとねがう私は、常に『神を悲しませている者』である。」(「福音と世界」6月号。)

  これは、神を悲しませる不信仰な偽善的な者でしかないご自分の告白と言っていいかも知れません。しかしこのような告白が神に向かってなされるところに、生き方の深まりがある気がします。

  偽善も不信仰も、告白される時にその人柄に深まりが生まれます。人の味は、曲折を持ちつつその闇が告白され、光の中に入れられる時に、理性では味つけできない味が出てきます。

  実際この方は、こんな歌を作っておられます。「聖水のつめたく触れし秋の日を、おもひつつゐて額あつしも」。

  秋にこの方は洗礼を受けられたのでしょうか。晩秋でしょうか。それで、洗礼の水が顔に流れてきた時、ヒヤッと冷たかったのです。しかしこのことを思い出すと、冷たく感じた額の所が熱く感じられるのです。イエスの熱い愛がそこに触れた感触が残っているからでしょう。またその感触を思い出すと、額が明るむ感じがします。明るむというと、なんだか味が出てきますね。あやふやに生きている、罪深い領地の中に聖なる異国が作られているように思われます。そこは、長崎の出島のような場所です。キリストの恵みに確実に触れうる場所なのでしょう。

  ここに、キリストの罪の赦しの恵みに与る深い示唆があります。

  もう一つ、こういう歌もあります。「百合の蕊(しべ)かすかに震るふこのあした、われを悲しみたまふ神あり」。蕊とは百合の長いめしべ、おしべです。それが微かに震えているかに感じます。それを見た朝、神が私を悲しんでおられることを一瞬に悟ったのです。

  神の悲しみまた苦しみ。十字架の上で、私たちのためにキリストは悲しまれました。ご自分は平和をすっかり失ってしまうほどに苦しまれました。キリストの平和は、私たちのために平和を失ってしまうまでに悲しまれた、その悲しみと引き換えに、私たちに与えられた平和ではないでしょうか。キリストの悲しみこそ、人間のいかなる悩みも不信仰も突き抜けて、救いへと導いてくださる悲しみです。その悲しみは、私たちを愛する熱い愛でもあります。

  そういう神が私たちにおられるのですから、人に見てもらおうとするのでなく、神の前に、ありのまま単純素朴に立てばいいのです。すると何がしか、突き抜けるものが生まれます。完全ではないかも知れません。しかし、隠れたことを見ておられる方の前に立とうとする、すると、神が私たちの手を取り、突き抜かせて行ってくださるのです。

  善い行い。隣人を愛するということにおいても同じです。愛するのは、誰かから見てもらい、誉めて貰うためではありません。それは、単純素朴にキリストに従うためです。この単純素朴な信仰から、突きぬけた喜びがやって来ます。しかもそれは、深さのある生き方につながっています。

       (完)
  
                           2009年6月28日

                                       板橋大山教会   上垣 勝


                                        
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  (今日の写真;中世の町、ヴェズレーの丘からの眺め。)