レッツ・ダンス!(上)


  
  
  
  
                                              ゼファニヤ3章4-17節

                                 (序)
  今日は旧約聖書のゼファニヤ書から福音を聞きましょう。めったに開けた事のない箇所かも知れませんね。すると、いわば長く締め切られた部屋に入った時のように、かび臭さはあるかも知れませんし、蜘蛛の巣もかかっているかも知れません。そんな陰気そうな部屋を開けて、「レッツ・ダンス!」と言うのですから、ちょっと戸惑われるかも知れません。

                                 (1)
  預言者ゼファニヤはイスラエルのユダの王家の血を引く貴族だと思われますが、この短い預言書で上流階級の罪を鋭く暴いて、中でも偶像礼拝の罪が厳しく指摘されています。偶像礼拝というのは何かの偶像だけでなく、お金や権力も偶像になりますから、何かを偶像にして拝する生き方の問題性です。時代は、ユダ王国の滅亡の時代。イエス様の約600年前から、以降です。

  ユダ王国は586年にバビロニア帝国に滅ぼされ、イスラエルには王はなくなり、神殿も破壊されて廃墟になりました。王は目玉をえぐられてバビロニアに連行されたと他の所に書かれています。喜びと活気に溢れた祭りは消え、エルサレムに巡礼する人はいないどころか、飢餓が襲い、山犬が吠えるようになります。昔を思い出せば、ただ悲しみと後悔が起るだけになりました。

  ところが今、この預言者は神の啓示を受けて、14節でイスラエルの残りの民に、「喜び叫べ」と語り、「心の底から喜び躍れ」と語るように命じられたのです。しかし彼は、民に向かって喜びのメッセージを宣べ伝える根拠を見つけることができません。むしろ、過去の数々の過ちが思い出され、その過ちがこの国に災いをもたらしたことを知っています。この実状を前に、どうして喜びや未来に対する明るさを語ることができるでしょうか。

  だが、少し前の3章9節に、「その後、私は」とあります。ここから3章の最後まで、エルサレム滅亡後に、神が計画しておられることが書かれます。12節には、「私はお前の中に、苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない」とあります。

  復興の可能性は殆どありません。その可能性は、ゼファニヤにはどこにも見えません。しかし、「残された民」があると言うのです。残された民というのは旧約聖書の重要な言葉、概念です。詳しくは今日は申しませんが、残された民は、いわば切り株です。その切り株から芽が出、木が育ち、やがて大きな木になることがあります。残された民はそれだというのです。

  「苦しめられ、卑しめられ」、低くされた経験を持つゆえに残りの民に望みがあります。私たちもそうですが、挫折があるゆえに望みがあります。挫折を糧にすれば未来が見え始めます。若い人の中には、挫折を経験したことがない方があるかも知れません。しかし、挫折の経験こそ人間に幅を生み出してくれるものです。決してそれは悪いことばかりではありません。

  15節には、「主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた」とあります。喜びが再び生まれるために、主なる神がその敵と戦って下さるのです。また17節は、「お前の主なる神は、お前の只中におられ、勇士であって、勝利を与えられる」とあります。敵は、外敵だけではありません。イスラエル自身の中にある敵、自分の中にある罪という敵でもあります。いや、その敵こそ最も強力です。

  アル中の青年が昨夜来ました。6年程前からアル中ですが、先月とうとう離婚させられ、もう頼る者はなくなったと言っていました。実家に帰ったら、家族から迷惑がられ、「お前は死んでくれ」と言って追い出されたそうです。

  私もどうすることもできず、少しのお金を差し上げて、今後相談できる場所など2、3のアドバイスをしただけです。お金を沢山あげても、それを飲み代にされては、あげた甲斐がありません。本人自身が目覚めて、自分の中の敵と戦わなければ、可哀想ですが再起できないでしょう。自分の中の敵を治めることこそ、人生最大の難題です。

  その一つのコツは、自分の限界と弱さを受け入れることです。弱さは弱さとして受け入れ、自分をむやみに傷つけないことです。むしろ弱さを持った自分をキリストに委ねること、明け渡すことです。すると、強くなければならないという律法の縛りから解放され楽になります。すると背伸びせずに、自分の現実の姿から出発できます。彼は、必ず立ち直ってお礼に来ますと言っていましたが、私は祈りながらその後姿を見送りました。

  さて15節は続けて、「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」と書きます。イスラエルは自分が原因で起った災いを恐れて来ました。そのために、自分を信じることが出来なくなっています。

  だが、その過ちの原因を取り除き、不幸につながらないように、罪や過ちが災いに導かれないように、神が私たちの只中におられて、不利になるものを退け、勝利して下さると言うのです。


  果たしてそんな好都合なことが起るのでしょうか。あまりに虫が良すぎるのではないでしょうか。

  ゼファニアは、自分が語っている預言がどのように実現するのか、自分でも分からなかったでしょう。まさか約600年後、彼の預言はイエスにおいて実現するとは思わなかったでしょう。だが、イエスゲッセマネで、私たちの救いのために苦き杯を飲み干し、私たちの罪と弱さ、過ちと闘って十字架について下さり、私たちが受くべき呪いをご自分に引き受け、ご自分が持っておられる祝福と幸いを人間に送って下さいました。

  これはただ一方的な主の愛と赦しによるものです。それ以外のどんな理由もありません。ホセア書11章が、「私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。私は、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。私は神であり、人間ではない。お前たちの内にあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」と預言したことも、このイエスの罪の赦しの福音を指しています。

  「力なく手を垂れるな」と16節にあります。自分の過去の罪。その前で恐れおののき、手を垂れている私たちです。しかし弱くなった手を、神が元気にして下さるのです。そういう神が主なる王として、私たちの只中におられ勝利を与えられるのなら、どうして勇気をなくす必要があろう。神こそ、その民を正しく扱って下さる方であるというのです。

                                 (2)
  このようにして、ゼファニヤは今、神から示されるままに、心の中に突き上げてくる神の啓示を語りました。今申しましたように、自分が今見ている現実に逆らって語ったでしょう。

  14節の、「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」がそうです。17節の、「お前の主なる神はお前の只中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」というのもそうです。

  彼は今、主が只中におられるのを現実に見ているかのように歌っています。しかも、神はその存在の深い所において、心から喜び楽しんでおられるというのです。詩編104篇には、「主がご自分の業を喜び祝われるように」とありますが、神は喜びに満ちています。神の本質は喜びです。神は喜びをもって私たちを造り、また新しくし、私たちの存在することを楽しまれる方です。

  パウロはローマ書で、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と語りました。キリストの福音は、人間に恐怖を与えるものではありません。聖霊による喜びを授けるものです。パウロはガラテヤ書でも、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和…」だと語っています。

  私たちが今日の箇所から示されるのは、神の喜びと、神が人間にお与えくださる喜びです。一方は他方に働きかけ、まるでダンスのように他方の手を取りリードするのです。パウロも、「喜びなさい。繰返していうが喜びなさい」と、フィリピの人たちに書き送りました。彼も獄中から人々をリードして語ったのです。

  14節の「娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」と語るのは神です。また17節の「お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」というのも神です。この「楽しまれる」という言葉は、むしろ14節のように、「お前のゆえに喜びの歌をもって喜び躍られる」と訳すことができます。

  神の本質は喜びであり、神は私たちに手を差しのべて共にダンスするように促しておられるのです。

  むろん、私などは身体が硬くなって動きません。躍れば疲れますし、腰痛になります。しかし躍るとは生きることです。神の命に手を取られて生きることです。それならどんな人もできます。レッツ・ダンス!そのために神は私たちを創造されたと言ってもいいでしょう。

  もう一度17節半ばから読みましょう。「主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」この言葉から、神はどんなに私たちを愛し、慈しみ、守って下さるかを知ることが出来るのではないでしょうか。

        (つづく)

                                2009年7月26日

                                       板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真:オルセー美術館はセーヌに面した、パリのかってのターミナル駅舎です。 )