不安の深淵を埋めるもの (上)


  
  
  
  
  
  
                                              フィリピ2章17-18節


                                 (1)
  前回ご一緒に学びましたが、2章12節からは、キリスト者は、また人間は世にあってどのように生きるべきかが書かれていました。それは、「神の子として、世にあって星のように輝」いて生きることと言っていいでしょう。心配の内に沈んで生きることを神は決して望んでおられません。また不安や恐怖の内に生きることも、イエスは決して望まれません。一人ひとりが、神に愛されている神の子として、命を輝かせ、喜びをもって生きることを、キリストは望んでおられます。

  その命の輝きを「世にあって」生きる。世から離れてではなく、世に背を向けてではなく、たとえ邪まな時代の只中でも、曲がった社会の只中にあっても、萎縮せず、神の子として輝いて生きる。その意味が説かれていました。

  若い人たちは輝いています。第一肌がみずみずしく輝いていますし、全身がまばゆく輝いています。老人はどんなに磨いても到底及びません。でも、ここで言われている輝いて生きるとは、そういう若さの輝きではありません。若さの輝きは必ずしぼみますよ…。ここでいう輝きは、人に罪を着せるのでなく、責任転嫁しないで、問題を引き受け、担って行くことから来る一個の人間としての輝きです。

  何故こんな自分に生まれたのだろうと、また何故こんな親の元で生まれたんだろうと、誰にも持っていけない悩みを抱いている方があるかも知れません。でも、そんな自分を腰を入れて引き受けていく。そこから生まれてくる輝きです。

  そのために、「自分の救いを達成することに努めなさい」と語っていました。

  救いの達成です。人とうまくやっていけない自分があります。自分自身との折り合いがつかないために、人とぶつかっている場合があるかも知れません。また、ずっと以前にできた心の傷がまだ解決されていないために、別の人との間であっても、それに似たことが起ると再び傷がうずいて、間違った判断や感情的な判断をしてしまうことがあるかも知れません。

  そこに、まだ救われていない自分がいるのではないでしょうか。救いとは和解です。神との和解であり、そこから生まれる自分との和解です。それが解決される時に、他者との和解もできるようになります。だが、自分との、また神との和解がなされていないと、自分を造って下さった命の根源である方との和解がないと、気に入らぬことがあると、ケンカ腰になったり、人を責める一方になったりしがちです。自分を突き放したり、ユーモアをもって自分を捉えることがうまくできないのです。

  私自身にもそうです。弱さを持つ人間の一人ですから、誰しも似たり寄ったりです。だから、「自分の救いを達成するように努めなさい」とパウロは言うのです。

  ですから、私たちは互いに、救いの達成のために祈りあったり、助け合ったりしなければならないのです。礼拝後に愛餐会があったり、お茶の会があったり、聖書の学びの時や祈りの時があるのはそのためです。私たちは交わりの中で育てられるのです。

  キリストに救われる時、自由を与えられます。自分からの自由、そして人からの自由。律法や戒律や「ねばならない」という掟から解き放たれ、それらに縛られている自分から自由にされ、自分を赦せないことからも、人を憎む感情からも解放されます。

  「救いの達成」。それは一人ひとりの人生の歩みに大変重要な事柄です。それは人生を大きく変えていきます。お金では買えませんし、資格を取っても手に入らない代物です。

                                 (2)
  さて、今日の17節は、「信仰に基づいてあなた方がいけにえを献げ、礼拝を行なう際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」と述べています。

  この言葉を読むと、初代教会の礼拝では、ユダヤ教のように羊や牛などの動物の「いけにえ」が捧げられていたのかという疑問が湧くでしょう。そういう意味ではありません。実際、前の口語訳聖書は、「たとい、あなた方の信仰の供え物を捧げる祭壇に、私の血を注ぐことがあっても」となっていましたし、フィリピ書の注解で最も権威があると言われる佐竹明さんの訳は、「あなた方が信仰を捧げて礼拝する礼拝に」という意味に訳しています。

  生贄(いけにえ)を捧げる礼拝でなく、普通の、今行なっているような、「信仰を捧げる礼拝」のことです。ですから動物を生贄として捧げたのかと、誤って理解しないようにしたいと思います。

  ただ、礼拝はキリスト者の生活の最も中心にあります。キリストは私たちを礼拝へと招き、同時に、キリストは私たちを、礼拝からこの世へと遣わされるからです。招きと派遣、そしてまた招かれて派遣される。その繰り返しが信仰生活です。神が中心です。ですから神のもとに帰って来、そこで刷新されて、社会へ押し出されて行く。そういう人生を歩む時、16節にあるように、「自分が走ったことが無駄でなく、苦労したことも無駄でなかったと」、後から分かります。

  これが信仰の基本ですが、そこには犠牲が含まれます。今日のような雨の日、しかも気持ちが沈んだ時などは、教会に出かけるのもしんどいことがあるでしょう。病人を家に置いて出かけるのも気がかりです。お昼ごはんを主人だけでしてもらうのも気の毒だと思います。神が中心であることと、主人を中心にしなければならない実生活とに、引き裂かれる人もあるでしょう。

  私の知る婦人は、日曜日には朝5時前に起きて、朝食、昼食、時には夕食を作って教会に行かれます。教会学校を9時からしますから、7時半に家を出なければなりません。役員もしていて、時々帰りが夕飯近くになります。

  あるいは、戦中の信仰者のように、周りから白い目で見られる中でも教会に行き続けるというのは大きな試練でしょう。

  これを、「いけにえ」と言わないにしても、「神の祭壇にささげる供え物」、信仰を捧げる礼拝と呼べるのではないでしょうか。

           (つづく)

                                 2009年6月21日
 
                                        板橋大山教会   上垣 勝



                                        
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  (今日の写真は、裏庭の樹木の中に建つパティオ。ヴェズレーで。)