不安の深淵を埋めるもの (下)
フィリピ2章17-18節
(4)
誤解がないようにお願いしたいのですが、パウロは殉教を勧めたり、美化しているのではありません。美談にしているのではありません。また、私はそういうことを述べようとしているのではありません。
そうでなくて、ここが大事ですが、私たちはいかなる形であっても神を礼拝することが可能だということです。喜びの時も、悲しみの時も、辛さも、人生に暗雲が垂れ込める中でも、明日、世の終りが来ると言われる中でも、いかなる時にも、その時、その時代、その場所を礼拝に変え、ここでパウロがしているように、人々を励ます機会として用いていくことができるという事です。
キリスト者というのは、ある意味で人を励ますために神様から召された人です。人を腐すために召されているのではありません。
それが、ローマ書で、「自分の体を、神に喜ばれる、聖なるいけにえとして献げなさい。これこそあなた方のなすべき礼拝です」と、パウロが書いた趣旨です。礼拝は、食事を作る中でも、子育てをする中でも、老人介護をする中でも、事務机に座って作業をする中でも、自分の体と心を神に捧げることによってなされるのです。
信仰は建設的な業であって、破壊的な業ではありません。後ろ向きでなく、前向きです。私がこの教会が好きなのは、皆さんが前向きだからです。マイナスをもプラスに変える力をもっていらっしゃるからです。自分の体を神に捧げる。そこまでの徹底がパウロのこの言葉に含まれています。
別の所にそれますが、函館にトラピスト修道院があります。ここは、一度入ったら二度と外に出れない、厳律シトー会といって大変厳しい戒律があるようです。函館の場合はどうか知りませんが、アメリカのあるトラピストでは、完全な沈黙が課され、無駄話しは一切禁じられています。
私たちの教会でも、皆さん、時々礼拝前の5分ほどは、完全な沈黙が課される必要があるのでないかと思いませんか?礼拝は神との対話の時だから、その準備として心を整える5分間が必要でしようね。
トラピストが考えるのも同じです。彼らは、神と対話するために入ったからです。だが共同生活ですから何かを人に伝えたり、相談したり、コミュニケーションはどうしても不可欠です。じゃあどうすると思いますか?
手話です。手話で行なうんです。手話なら静寂を保てます。ただ込み入った話しは手話では十分に意を尽くせませんから、その時は許可を得て、特別な部屋で話をするそうです。
彼らは朝2時に起床します。私は時々、2時半に寝ますから、私なんかはトラピストとは最も遠い存在です。
2時に起きて、どんな黙想や行をするかご存知でしょうか。先ず第一にすることです。
先ず朝一番にするのは、体操なんです。気が抜けますね。ラジオ体操ではありませんが、体操なんです。ある人は、青年時代に軍隊で習った筋肉体操をするんだそうです。それが終るとヨガをするんだそうです。何だ、自分と同じじゃないかって思う人もおありでしょう。中には太極拳をする人もあるかも知れませんし…。
修道院の奥深くで、朝早くから筋肉体操とヨガ。全くそぐわないと思うかも知れません。しかし、これが隣人を愛すること、隣人を愛して神に仕えることになるのです。
どうしてかと言うと、共同体ですから、身体を壊せば仲間の世話にならなければなりません。早く老化が進んで、誰かさんみたいに、腰痛で歩行困難になれば、孫も抱っこできなくなります。トラピストの人は独身ですから孫を持っていませんが、それはともかく、老化が早く進めば仲間に負担がかかる。ですから、身体を鍛えることは隣人愛なんです。朝から筋肉体操をしているのは隣人を愛し、神をたたえることなんです。
私の言いたいことは、彼らは、何事も神に仕える礼拝の場に変えているということです。
パウロの言葉からすれば、生活の全ての事柄を神を賛美する機会、神を愛する機会、喜びの機会にすることができるという事でしょう。
あるお医者さんは、手術をなさる前には必ず礼拝するそうです。確かに人の身体にメスを入れるということは、最も厳かなことです。人格の尊厳といいますが、これ以上に聖なる行為はないでしょう。祈りなしにはできないことではないでしょうか。
私たちが不安になるのは、何のためにその苦労をしているのか分からないことから来ます。果たしてこの労苦に意味があるのか。自分はこんな所でウロウロしていていいんだろうか。その不安の深淵を埋めるものは、私たちの命の源である神を知る以外にありません。この方を知って、この方に仕えることに人生の目的を見出す時、その深淵は埋められます。埋められるだけでなく、喜びが生まれます。心の内側に平和が生まれます。人に罪を着せるのでなく、人にあたったり、怒ったりするのでなく、率先して腰を入れて労苦を負う力、負う喜びさえ生まれます。
パウロは自分の死、悲惨な拷問、ライオンと戦わせられて殺されるかも知れない惨(みじ)めに見える死。敗北に見える無様(ぶざま)な死。嘲笑されて蹴飛ばされて死ぬ死。それをも私は喜ぶと言い、あなた方も一緒に喜んで欲しいと語ります。
もし私たちの目が、神を仰ぐ目であるなら、どんな生も、どんな死も、そこに汲み尽せない喜びが現われるでしょう。その喜びは誰によっても奪われることのない、永遠の命に至る喜びになるでしょう。
神を仰ぐ人生は、暗い不安の深淵をもすっかり埋め尽くして、その上に健やかな、生活を築くものにしてくれるでしょう。
2009年6月21日
板橋大山教会 上垣 勝
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(今日の写真;石と土で巧みに崖の崩壊を防いでいます。ヴェズレーで。)