向こう見ずな女? (上)


  
  
  
  
                                              
                                              マルコ12章41-44節


                                 (序)
  今日の所には、イエスはお金持ちややもめがしていた献金を見ておられたとあります。しかも賽銭箱の前に座って見ておられたというのです。イエスがご覧になるのと、私たちが見るのとは違います。私たちは手元を見ますが、イエスは心をご覧になられます。

  ヨーロッパでは、献金は平らなお盆を廻されますから、誰がいくら捧げたかが分かります。それで、小さな村の教会では、子どもたちは、人がお盆に献金を捧げる時、それを見ないように躾けられるそうです。幾ら献金をしたかを見るのは失礼ですし、献金はその人と神との問題だからです。

  日本のある大教会の話です。ご夫婦で牧師をしておられるのですが、奥様の婦人牧師が、説教の当番に当たりました。でも礼拝に遅れたのです。皆が待つ中でやっと牧師が到着して、古い教会ですからひときわ高い講壇の席に着いて奏楽が始まりました。すると婦人牧師はバッグを開けて、何やら取り出しました。何だと思います―。口紅を取り出して、講壇の上で塗り始めたそうです。講壇の上ですから、見ちゃあいけないことでも誰もが見ます。子どもでなく、今は牧師を躾けなきゃならない時代が来ているようです。

  アメリカなどでは献金は、他人への配慮は要りません。それぞれが家で行なう私的な事柄になっています。というのは、小切手で献金をしたり、自動引き落としで献金したりするのだそうですから、そういう人たちは、多分今日の物語はサッと読み流してしまうかも知れません。

  しかし、私たちはそうではありませんから、注意深くこの箇所を読みたいと思います。

                                 (1)
  金持ちたちは、賽銭箱に沢山のお金を入れていたとありました。「大勢の」金持ちたちともあります。彼らの姿はどこか自慢げな所があったのでしょう。公衆の前で沢山の賽銭を入れることで、人々にどんな印象を与えるかを計算していたかも知れません。

  今日の聖書の直前の40節に、律法学者の見せかけの祈りのことが書かれていますが、この金持ち達の献金も、人に見せるパーフォーマンスになっていたということでしょうか。

  イエスが見られるのは、献金の額でなく心なのに、額の多さを気にかけていたのでしょう。

  ただ、彼らは沢山の献金をしましたが、その献金で、自分の生活に実質的な打撃をどれだけ受けたでしょう。それは従来どおりの、あまり痛みを伴わない、心のこもらない施しに過ぎませんし、この後、彼らの生活が大きく変えられることはなかったでしょう。

  それに対し、このやもめは何も計算せず、まさにソロバン勘定抜きで捧げたのです。もし私たちが貧しくて、僅か二枚のコインしか持たなかったら、どうするでしょうか。1枚は取って置いて、1枚だけ捧げるのではないでしょうか。それが賢明なやり方ではないでしょうか。常識ではないでしょうか

  しかし彼女は2枚とも捧げたのです。何とも向こう見ずな女です。「向こう見ずな女」という題を見て、何というはしたない題なのと妻から叱られました。でも、やっぱり向こう見ずです。この日の生活費全部を捧げることによって、彼女の人生は変化したに違いありません。彼女は今日の食を断つつもりです。それは、パウロがフィリピの信徒への手紙で書いたことです。私は、「富にいる道も、貧に処する道も、その秘訣を心得ている。」彼女は自覚的に、この一日を貧に処する道を選ぼうと思ったでしょう。彼女は宝を天に積んだのです。この日、神のものは神に返そうとしたのです。神への感謝の捧げ物として自分の全てを捧げたのです。

  私が信濃町教会にいた時、JOCSのワーカーとして、インドネシアで働いていた小林好美子さんという教会員を支える会がありました。今は70歳代になっておられて、すでに引退して、私たちのバザーのために心を込めて色々支援して下さっている方です。

  ある時、小林さんへの支援の呼びかけを山ノ内さんという方がされて、向こうの人たちは1日1回とか2回しかご飯が食べれないのですから、私たちも支援の献金をするとき、食事を抜いて、断食の痛みを味わって、その分を献金しましょうと訴えられました。

  私はこの時、JOCS日本キリスト教海外医療協力会がどれだけ真面目なキリスト教の団体であるか、また大学の先生の道を捨てJOCSのワーカーとして貧しい国に行かれた小林さんと、小林さんを支える会が、どれだけ信頼できる、信仰に基づいた会であるかを、この訴えから知りました。

  やもめは神に感謝し、褒(ほ)めたたえるために献金したのであって、貧しい人たちに連帯するために捧げたのではありませんが、共に神に仕えるまごころにおいて共通しています。

  私たちの驚くのは、彼女は、何と軽くお金を握りしめていることかということです。また何と神を真剣に仰いでいるかという事です。そのため、お金に執着する生き方とは異質です。向こう見ずとも見られる程、神が授けて下さったものを、神にお返ししたいと、誰に言われたわけでもなく考えているのです。江戸っ子は、宵越しの金は持たぬといいますが、このやもめは江戸っ子の潔い気性を持っていたのでしょう。

  イエスは私たち全てに、持っているものを全て捨てよとは言われません。だが、律法学者のように見せかけで生きるなと命じられます。見せ掛けでなく、神の前に精一杯、力を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、心を尽くし、精一杯、感謝を込めて生きることです。

  今申しました言葉は同じ12章の30節に、最も重要な掟として出てきます。マルコ福音書の著者が、見せ掛けではなく、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして神を愛しなさいと書いたすぐ後で、今日のやもめの、見せかけでない真実な生き方を書いたのは、両者に関連を持たせるためであったでしょう。

        (つづく)

                              2009年8月30日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真:オルセー美術館で ⑨ )