渇く人は使命を持つ (上)


  
  
  
  
                                              
                                              ヨハネ7章37-39節


                                 (1)
  イエスは、仮庵祭(かりいおのまつり)が最も盛大に祝われる終わりの日に、神殿の境内で立ち上がって、「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」と、大声で言われたとありました。

  イスラエルの仮庵祭は秋の果物の取り入れの祭りです。カナンの土着宗教にも秋の取り入れの祭りがありましたが、彼らは酒を飲み踊り狂って祝いました。それは官能的で最も風紀の乱れる淫猥な祭りの時だったようです。

  カナンを征服したイスラエルは、土着の宗教とは逆に、秋祭りには、庭や屋上に簡単な仮小屋を作ってそこで一週間ほど寝起きし、神の恵みが与えられたことを味わったのです。彼らは自由を求めて、エジプトの奴隷生活から脱して砂漠を旅しましたが、神は40年に亘って砂漠の生活を守られたことを仮小屋の質素な生活をしながら思い出し、感謝し祝いました。しかしユダヤ教が進むと仮庵祭はだんだん盛大な儀式になり、イエスの時代には大勢の人がエルサレム神殿に詣でてこの一大イベントに集まったのです。

  イエスはその祭りが最も盛大に祝われる最終日を待って立ち上がり、大声で、「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」と言われたのです。

  祭りは大々的に祝われ、人出もピークに達しました。しかしいかに祭りが盛んに祝われようと、肝心の人々の渇きは少しも潤されていません。生活と信仰において最も重要なのは、渇きが魂の底から癒されるという事ではないでしょうか。それなしには、神殿の祭壇にどれだけ多くのものが捧げられ、大勢の民衆と共に地位や権力ある者が集まり、格調高く聖書が読まれても無意味ではないでしょうか。イエスは祭りの儀式が最高潮に達した時に、人生の最も中心的なことを語られたのです。

                                 (2)
  世には様々な渇きがあります。むろん水そのものに渇く人たちがいます。不衛生な水しか飲めず、一生衛生的なおいしい水を飲めない人たちです。私はインドやインドネシアの田舎でそういう人たちと生活したことがありますが、彼らの水への渇きは非常に大きいものです。というのは不衛生な水で死んでいく幼児が大勢いるからですし、1、2kmほど離れた水場に行って水を汲む仕事は女性たちや子どもたちの欠かせない日課です。行きはいいとして、帰りは水が一杯入った重い容器を持ってその距離を歩くのは大変です。一日の大半が水を汲むことで終る一生というのを考えて見て下さい。もし水汲みがなければ子ども達は学校に通え、女性たちは内職、いや、内職の前に文字を習うこともできます。

  聖書には渇きだけでなく「飢え渇く」人々が出てきます。その場合は食べ物への飢え渇きがありますが、正義、神の義への飢え渇きもあります。

  アグネス・チャンさんはユニセフの大使になられてかれこれ10年ですが、大使になった日にスエーデン大使館に連れて行かれ、そこでいきなり、「日本は児童ポルノの加害国です」と言われたそうです。その後タイやカンボジア、フィリピンなどでその実態をつぶさに見たそうです。どこに行っても、「日本はこれをもっと厳しく取り締まってください」と言われるそうです。だが日本政府は、なぜか厳しくありません。義を求めないのです。

  今、世界で10億2000万人が飢餓で苦しんでいます。世界人口の17%にあたり、世界不況で人数は増えています。しかし世界の食料は必要な量の2倍もあるそうです。富める国と貧しい国の格差のために、6人に1人は食料がなくて苦しんでいるのです。5秒に1人の子どもが飢餓で死んで行きます。発展途上国の5人に1人が慢性栄養不足、慢性的飢餓です。何も悪いことをした訳ではありません。私たちがそこで生まれていれば、そうなったでしょう。

  飢え渇きについて例を列挙すれば切りがありませんが、これは、私たちがまだ民族や国が違う人たちを、神に創られた同じ家族の一員と考えていないからです。21世紀ですがまだ国境の壁を越えることができていません。

  渇きの中には、内面的な渇きもあります。今年は太宰治の生誕100年だそうです。盛んに祝われて、ああいう人ですから、きっと本人は決まり悪く思っているに違いありません。

  彼はある本の中で、「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己(おのれ)を愛するがごとく、汝の隣り人を愛せ』という難題一つにかかっていると言ってもいいのである」と書いています。彼は愛せない自分に悩み、渇きました。人間失格と書いたのは、この愛する能力の無さに苦しんだからだと言われます。その様な、自分への切なる渇きを持っているから、今なお太宰治は若者たちに人気があり、大人たちにも静かに読みつがれているのでしょう。

  私の言いたいのは、大人もそうですが、若者たちは渇いているということです。しかし、この渇きを真に癒してくれるものがなくて、擬似的なものに癒しを求め、孤独になっている多くの若者がいます。

  「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」イエスは、今日の日本の青年たちにも、大人たちにも呼びかけておられるのです。キリストを知らず、擬似的なもので渇きを癒さざるを得ないと考えている人たちに、ここに来て渇きを潤されるようにと呼びかけておられるのです。

  ドストエフスキーの作品には渇く人たちが多く出てきます。「罪と罰」のソーニャもその一人です。彼女は売春婦です。父親は退職した下級官吏ですが人生に絶望し、酒に溺れてメチャクチャな生活になっていて、娘が身体を売って稼いでくるお金さえ飲み代(しろ)にしています。

  しかし、ソーニャは出口の無いこの世の地獄にありながら、神の憐れみを求め、復活のキリストを信じ、小さい兄弟や両親のために自己犠牲的に働いて生きて行きます。彼女の姿は弱々しく頼りなげです。しかしその吹けば飛びそうな姿に、世を支配するマモン・金の力やバアル・偶像の力に最後的に勝利する力が秘められていることを、ドストエフスキーは示唆しました。彼女に希望を授けている復活のキリストが、最終的に決着をお付け下さるからです。

  このソーニャにも、激しい渇きがあります。それは一生癒されない渇きかも知れません。しかし癒されることはないのに、既に彼女は癒されているのです。

          (つづく)
                              2009年7月5日
  
                                         板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ヴェズレーの町に入る門。)