罪人を招く神 (下)


       ジュネーブの旧市街にこんな遊覧車が走っています。坂道が多いので乗ると便利かもネ。             
  
      
  
                                              
                                              マルコ2章13-17節

  
  (前回のつづき)  

  イエスは、「私が来たのは、罪人を招くためである」とおっしゃいました。徴税人や罪人というのは人間の心までなくした、血も涙もない者と見なされていました。忌み嫌って誰も近づきません。しかしイエスは、罪人の中にも希望のしるしを見つけられるのです。彼らにも今や神の国が来ていること、神は罪人のそばにおられること、「罪を計れば巌より重き」、そんな罪を持っていると見なされている人にも、愛の神が来ておられることをお示しになるのです。

  イエスの憐れみは、頑固でタコのようになった心も融かします。冷たい氷のような心をも融かされます。「私が来たのは、罪人を招くためである」とは、このイエスの愛の熱さです。イエスは、レビの受けてきた恥も、屈辱も、嘲りもよくご存知です。そこまでご存知だから、レビの心の氷塊も溶かされたのです。

  預言者イザヤは、「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われて来た。同じように、あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」と、神から言葉を受けて語りました。神はどんな時も、どこまでも持ち運んでくださるのです。

  イエスは弟子たちを選ばれました。だが、彼らは十字架に躓いて一旦はイエスを見捨てて逃げました。それでも、イエスの方は彼らを捨てられませんでした。

  イエスは、私たちを選び、選んだ者を極みまで愛し、決して捨てず、たとえ躓いても再起させんと骨折られ、しかも、それでも倒れる者を十字架にかかって支え、つっかえ棒になられます。つっかえ棒とは不適切な言葉ですが、イエスは弟子たちの足を洗い、極みまで愛されたのですから、たとえ私たちの救いのつっかえ棒になっても、もし救われるならそれを喜ばれます。自らは地獄に落ちても、私たちをお救いになります。

  「罪人を招くために来た」とは、そういう意味です。

                                 (4)
  ここで一つだけ付け加えたいのは、罪人が罪人のまま、「それでよし」とそのまま赦されますが、イエスはみもとに来る罪人を創り変えもされます。その力を持っておられます。

  イエスが罪人をお招きになるのは、罪人が意地を張るためではありません。悔い改めて正しくされるためです。今日の続きの22節で、イエスは、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものだ」と言われました。イエスがお招きになるのは、新しい皮袋を用意する人にするためです。そのまま赦されますが、創り変えもなさるのです。

  熱湯に氷を入れたら氷は解かされるのと同じです。氷が努力して自分を解かすのでなく、熱湯が自ずと氷を解かします。イエスの所に来る人たちも同じで、創り変えられるために招かれるのです。むろんレビも、イエスに従った後、幾たびか躓きがあったでしょうが、必ず創り変え持ち運んで行かれたことでしょう。

      (完)

                                 2009年9月27日 


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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