キリストの内に自分を見出す (上)


  
  
  
                                                                                            フィリピ3章1-9節

                                 (1)
  パウロは今日の冒頭で、「では、私の兄弟たち、主において喜びなさい」と書いています。

  「では」とは、2章の終わりに書いた、テモテとエパフロディトのことに関係して、「では」と言っているのでしょう。彼らをそちらに送るが、テモテは窮地に置かれても信仰に立ち、喜びをもってそれを乗り越えて来た青年キリスト者である。また、エパフロディトも瀕死の病の中から奇跡的に生還し、喜びをもってキリストの業に命をかけている男だ。だから、では、あなた方も2人のように、「主において喜びなさい」というのでしょう。

  パウロは2章17節で、「たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなた方も喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」と書きました。ですから、殉教を示唆するパウロの言葉に、フィリピの人たちが意気阻喪するかも知れません。そこで2人のことを書いて、「では」、あなた方も彼らのように「主において喜びなさい」と励ましたのでしょう。

  パウロは信仰の人であると共に愛の人ですし、人の心をよく察する人です。ここには、自分の投獄で動揺しないように、いささかも信仰の喜びをなくさないようにというパウロの深い配慮が感じられます。

  パウロは別の箇所で、「一人前の信仰者」ということを語っていますが、もし一人前の信仰者というのがあるとすれば、自分の十字架を担うと共に、それだけでなく他の人に対して深い配慮をする人です。自分勝手なあり方でなく、人々の信仰が育つために、自分の十字架を担いながらも努めることです。別の言葉で言えば、教会の徳を高めるあり方をすることです。そういう人は、社会でも建設的な力となって働くでしょう。

  私は、この教会にそういう方々がいらっしゃることを頼もしく考えています。人のことを考えない、荒々しい言葉や態度では、キリストの体である教会は決して生まれません。母なる教会で育てられた私たちは、次に自分が他の人を育てる母になる時に、一人前の信仰者になります。

  パウロはすでに2章で、「テモテのように、私と同じ思いを抱いて、親身になってあなた方のことを心にかけている者は他にいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と書きましたが、親身になって人々のことを心にかけることによって、教会の徳が高められるからです。

  先日、Aさんをお見舞いしました。するとベッドの足元に新聞が折り重ねてありました。聞くと、Bさんが家族みんなが新聞を読んだ後、届けてくださっているとおっしゃったので、ああ、そういうことができるのかと思いました。それから古い本も置いておられて、それは何かと思っていましたら、Cさんが、三浦綾子文学読書会で取り上げる本を図書館で借りて、読み終わって届け下さったという事でした。それでやっぱり、なるほど、そんなこともできるのかと思いました。

  それぞれもう80歳になろうとしている方々です。しかし、なんと美しい交わりでしょう。物によらない、心の交わり。得をするから付き合ったり、自分の為になるからつながったりする関係でなく、もっと目に見えないものを大切にした、80歳になろうとしているおばあちゃん達の親身な美しい友情。そういうものが、大都会のビルの谷間のこの小さな教会の中に成立していることの、不思議さを知ったのです。

  テモテのように「親身になる」とは、こういうことも含むでしょう。慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解されること。そういうことが教会の、キリストの徳を高めることになるのです。私たちは自分の願望を実現するために教会に通っているのではありません。キリストの徳が輝き出るためです。神様の栄光のためには、どうすればいいのかと心を砕くのです。

                                 (2)
  さて、1、2章にはそういうパウロの清い配慮が満ちていましたが、3章に入ると、2節以下で様相が一変します。警告を発し、戦うパウロが現われるからです。

  2節では、「あの犬どもに警戒しなさい」とか、「邪まな働き手たちに気をつけなさい。切り傷に過ぎない割礼を持つものたちを警戒しなさい」と呼びかけ、「私たちこそ真の割礼を受けた者」、「私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と語ります。

  パウロは、何でもいいとする人間のタイプではありません。然りと否をはっきりさせる人です。伝道者として、人の救いに責任を持っているからです。パウロは、他は大雑把であっても、特に救いに関わる大事な問題となると、明確な態度を示します。イエスも「しかり、しかり、否、否、であるべきだ」と言っておられます。

  パウロはここで何を問題にしたのでしょう。一言で言えば、ユダヤ教的な肉に頼る人たちの問題です。ユダヤ人は割礼を受けて、それを救われるための必須条件だと考えました。たとえキリスト者になっても、割礼を受けないなら救われないと語って、割礼を救いの条件にしました。

  従って、ただキリストの恵みを信じることによってのみ救われると説くパウロに反対して、彼らは分裂を持ち込んだのです。ですからパウロは、彼らを「警戒しなさい」と語るのです。

  彼らの問題は、キリストを信じているとはいえ、もう片足は人間的な基盤に立っていることです。その主張を延長すれば、「自分は割礼を受けている、自分は生まれからして君たちとは違うのだ、自分は民族的にも、血筋からしても、救われるに価する人間なのだ」ということになります。

  そのような考えは、ただ傲慢なキリスト者を生むだけです。それはキリスト教徒を称しても、返ってキリストを辱めます。ですからパウロは、彼らは、「肉に割礼を受けているが、心に割礼を受けていない」と言います。すなわち、彼らはまだ神のために捧げ切っていないのです。徹底がなく、不純なのです。ですから、彼らの割礼には信仰的な意味はない、単なる切り傷だと述べたのです。

  パウロはこのように、鋭く切り込みました。

      (つづく)

                             2009年8月16日

                                      板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真:オルセー美術館で ⑤ )