向こう見ずな女? (下)


  
  
   
                                              
                                              マルコ12章41-44節


                                 (2)
  何故こんなことができたのか。この貧しいやもめは金銭にまさる確かなものを持っていたからでしょう。それは、神への強い信頼です。神は今、捧げることを命じられたのだから、必ず神さまが責任を取ってくださるという、神への素朴な信頼、単純な信仰です。

  むろん、この世的に見ればたった一日の生活費、レプトン銅貨2つを捧げるというのは、僅か200円ほどですから極めて小さな行為です。彼女は200円の貧しいやもめの生活です。しかし彼女の質素なこの行為には、金額以上のことが起こっています。

  それでイエスは、弟子たちを呼び寄せて、やもめに目を留めるように、彼女が持っている、目に見えない何かに目を留めるようにお話しになりました。それは彼女の意志の強さであり、自由さであり、信仰の大胆さであり、真実です。

                                 (3)
  この少し先のマルコ福音書14章で、ナルドの香油というとても高価な香油が入っている壷を壊して、イエスの頭に注ぎかけた婦人について書かれています。

  それを見た人たちは憤慨し、何故こんな無駄遣いをするのか、これを売って貧しい人たちに施すことが出来たのにと言って、婦人を厳しく咎めたとあります。別の福音書では弟子たちがそう言ったと書かれています。

  彼女はそれほど貧しくありません。むしろある程度豊かな婦人です。この婦人は先ず従来の習慣を破りました。そして壷を壊し、高価な香油をすっかり捧げることで、キリストと共にいる人生の今のこの一時(いっとき)は、高価な香油に優ることを証ししたのです。また、キリストから多くのものをお受けして来たこと、人生は苦しみよりも、その前に神から授けられた感謝するべき賜物であることを証ししたのです。そして、自分のこの真実な思いを表わすことを、何者も引き留めることはできないことを証ししました。

  私たちが礼拝に来るのも同じです。この一時は金銭に勝ると考えるからですし、人生は色んなことで苦しみも多いが、何よりも神の賜物と考えるからです。それは、最後は自分しか頼りにならないといいますが、でももっと突き詰めれば、自分もこの世も最終的には頼りにならない世界の中で、「神こそ私の岩。私の救い、砦の塔。私は決して動揺しない」と思うからです。一週間の最初に神の前に具体的に身を置くのは、人生を神から貸し与えられたものと考えるからです。

  彼女は少しは豊かだとはいえ、家柄もない、身分の低い人でした。だから、人々は彼女を手厳しく咎め、憤慨したのです。弟子たちでさえ彼女を厳しく責めたのですしばしばそういう人たちは、現在でも口に言えない口惜しさを経験しますが、彼女はそういう人の一人です。

  しかしイエスはそれをご覧になって、彼女は、「できる限りのことをしたのだ」と語り、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言って賞賛されました。

  イエスは神の愛に応える、彼女の向こう見ずな、大胆で自由な神をほめたたえる信仰、因習にとらわれない行為を評価されました。

  イエスは、価値あるものを生めない人たちや不出来に見える人たちも、明らかにその人格を高く評価して行かれました。今の時代は人の大部分を経済的に評価する時代ですが、もし人を経済的にしか評価せず、経済的に有能な人が立派であるとか、彼らは人間として価値が高いという見方をもっているなら、それは本当にそうかどうか再考しなければならないでしょうか。

  私たちは金儲けをするために生まれて来たのではありません。神と交わり、人と交わり、幸いな生活をするために生まれてきたのです。

  先程の29節以下で、第1の掟と第2の掟が出てきます。「第1の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第2の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」これらは、神との真実な交わりと人との真実な交わりを指しています。ここに幸いな人生を送る最も大事な道があると語っているのです。

  福音書が語るようなこの世の規範にとらわれない見方をして行くなら、それぞれ違った環境にある人間を、寛大に迎え入れる余裕が生まれるのではないでしょうか。イエスには差別の目はいささかもありません。

                                 (4)
  このやもめは持つものすべてを捧げました。では、私たちにとって、全てを与えるとは、どういうことを意味するのでしょう。

  イエスは愛を与え、最後にご自分を全てお与えになり、自分を越えて行かれました。やもめは、真実な神の愛に出会ったから、持つものを全て与えることができたのはないでしょうか。

  先程も言いましたように、全ての人がやもめのようになれと、聖書は言っていません。これは律法ではありません。そこを間違えてはいけません。それぞれが、自分の仕方で心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、神への真実な愛をあらわすのです。

  私たちの中には、決して赦せない人があるかも知れません。理由もなく反感をもち、敵意をむき出して迫ってくる人にどう対処すればいいのか、私たちは悩みます。全く失礼な態度です。

  しかし赦せない人を、イエスに従うゆえに、何とか力と思いを尽くして赦せないかと奮闘するのです。奮闘しても中々赦せないかも知れません。しかしなお奮闘しつつ、やがて神様の前に出て、「主よ、憐れみたまえ」、「キリストよ、憐れみたまえ」、「キリエ、エレイソン」と胸の底で叫びつつ祈り求める。そういう中でキリストの赦しを黙想する時、優しさが生まれます。そのようにして、感情を越えて赦すという形で自分を与えるなら、それは素晴らしいことです。そこには、もっている今日一日のものを全て与えるという、やもめの信仰に通じるものがあるでしょう。

  そこには、自分や世のものを堅く握り締めず、神から受けたものは神に返していくという、やもめの信仰と同じものがあります。

  お金への態度は、自分や他者、また人生をどう生きるかを表します。もし私たちの財布についての見方が変えられるなら、他の人たちへの態度も必ず違ってきます。同じ時代を生きる人類家族、仲間として共に痛みを負おうとする生き方、また社会的な地位や、能力、学歴、身分によって人を見るのでなく、誰にも公平に、心を開いて接する生き方が生まれます。

  今日の聖書はそういう所まで私たちを導いて行きます。

      (完)

                             2009年8月30日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真:ルーヴル博物館は無料で入館できる日があります ① )