傍を通られても気づかない


        エルサレム入城~オリブの園で眠るペトロ、パリ・ノートルダムを記念して    右端クリックで拡大
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                                                  役員の使命 (4)
                                                  使徒言行録20章28節



                                 (3)
  ここには羊飼いのイメージが多く使われていますが、世話とは羊を養い育てることで、あなた方は群れの世話をする人たち、羊飼いであれと語っているのです。群れの監督者という表現も、羊飼いのイメージです。当時の教会には監督者や長老が教会に数人置かれていたようです。

  日本語の監督は、広辞苑では、目を配って管理したり、指図したり、取り締まったりする人を指しますが、本来の教会の監督はそれを意味しません。権威を振り回すのでなく、群れの模範になること、群れに仕えることです。羊飼いのように羊を愛し、養い育て、羊のために身を惜しまず奉仕する人たち。羊に耳を傾け、傾聴して、育てるのです。

  長老の報酬はただキリストです。キリストから「善かつ忠実な僕、よくやった」と言われる事です。それが最も大きな喜びの報酬だと言っていいでしょう。

  ここには、監督や長老や役員になったあなた方の背後に、神の聖霊の働きがあるという確信が存在しています。私たちの教会の役員は選挙で選ばれますが、そこにも聖霊の働きがあると信じています。ヨブ記に、「神がそばを通られても私は気づかず、過ぎ行かれてもそれと悟らない」という面白い表現がありますが、選挙を通して神の聖霊がサッと働かれ、神がサッとお選びになって行かれるのが聖霊の働きだと言っていいでしょう。それと分からないのに神が選ばれたのです。

  以上、今日は役員の使命を考えさせられる個所でした。あいにく今日の任職式はAさんのお父さんが脳出血で倒れられ出来ませんでしたが、今回初めて役員に選ばれて、こう書いて来られました。「至らないことが多いですが、神様と教会の皆様のお気持ちにお応えできるよう、大山教会の発展のために努力したいと思います。どうかご指導をよろしくお願いします。」「自分が教会の役員だなんてまだ信じられません。母が生きていたら報告するのですが…、しっかりできるようになりたいものです。私も教会学校で教会が好きになったので、楽しさを子どもたちに伝承できるのも、神様の御心かと思います。」ここまで積極的で前向きな方であることを私は知って嬉しくなりました。私達の知らない所で神は働いて下さっているのだと思います。神の聖霊がサッと大山教会に来られてお選び下さったのでしょう。感謝しましょう。

        (完)


                                           2019年4月28日



                                           板橋大山教会  上垣勝



  ヤフーの板橋大山教会ホームページは、2019年3月31日で終了しました。

  後日、ホームぺー作成の予定。

焼かれても焼けないもの


                受胎告知~幼児虐殺。パリ・ノートルダムを記念して     右端クリックで拡大
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                                                  役員の使命 (3)
                                                  使徒言行録20章28節



                                 (2)
  こうして今日の28節に入り、いよいよ長老の使命。今日の言葉で言えば、エフェソ教会の役員の使命を簡潔に述べます。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」

  ここでは、長老を「群れの監督者」と呼び換えていますが、長老、監督者、群れの羊飼いなどという言葉は、同じ人たちを3つの側面から言い表したもので、今日の教会役員を指すと言って、大きな間違いではありません。当時はまだ教会が誕生したばかりで、教会組織や制度は整っていませんし、牧師制度もありませんから、長老や監督は一般信徒でありつつ、牧師の一部の役割も担っていたでしょう。

  先ず、「あなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい」です。長老や役員は、自分の生き方、己の信仰に先ず気を配らねばなりません。それなしに、群れ全体の事に気を配ることは出来ません。自分を外さず考えると、人間の弱さ、躓き、醜さ、不決断、小心、不誠実、罪の数々の事を教えられます。今は全うな人間で生活も順調であっても、かつては語るも恥ずかしい生活をしていたかも知れません。あるいは傲慢だったかも知れません。「汝自身を知れ」と言われますが、自分自身です。自分自身と対面する時、パウロのように、自分は全く取るに足りない者であること、土の器であることを痛感するでしょう。しかしそれと共にキリストの恵みの大きさも分からせて頂くでしょう。

  その様にして、群れ全体の事に気を配ることが可能になります。礼拝の司式で、「牧会祈祷をします」と言われますが、その祈りはこの羊の群れ全体の事を覚えて祈ることであり、町の人たちや今日の世界の人たちも、神から見れば群れの羊と考えて、執り成しの祈りをさせて頂くことです。いまだ神を知らない人たちも神にとっては愛する羊の群れです。

  群れ全体です。出来るだけ全体の方々に公平に気を配り、執り成す。大事故を起こしたが警察に連絡せず、息子への連絡を優先した人がいましたが、それは本当に残念です。ある分野では冠たる高名な権威者だそうですが、人間は何事も正直でなければなりません。自分を優先して真っ先に保身に走ったり、自分の事だけで完結せず、もっと広く群れ全体に気を配る。教会の成長のために群れを慈しみ、手塩にかけて育てる態度です。この心掛けが大事です。「気を配る」とあるのは、羊飼いが群れの状態、群れ全体の個々の羊の状態に気を配ること、また保護する事を意味します。

  パウロは次に、「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と語りました。

  「御自分のものとなさった」とは、買い取ったという意味です。誰から買い取ったか。この世から、罪の世界から買い取ったのです。エフェソ教会の一人一人は、悪の世、罪の世から、神のみ子キリストの血で神の許へと買い取られた人たちです。今も肉体は地上にあり、罪のこの世にありますが、その本質は既にキリストの血で永遠に神の国へ贖い取られています。私たちは既にキリストのもの、神のものです。誰も神から引き離すことは出来ません。世の力が引き離そうとしても、それでも決して引き離されないのです。

  日本語聖書の最初の翻訳はギュツラフがマカオで訳した和訳聖書です。江戸時代に遠州灘で遭難した岩吉、久吉、音吉の3人の漁師が約1年2か月後、奇跡的にアメリカに漂着し、やがてイギリス廻りで世界を一周してマカオに着き、彼らが聖書和訳の手伝いをして完成します。しかし当時はキリシタン禁制で、聖書を持ち込むことは極めて危険です。翻訳に手を貸したと分かっただけで、直ちに打ち首。聖書もすべて焼かれます。

  ところがギュツラフはそれを承知で、「分かっています。お国の事情は。けれども神の言葉は残ります。焼かれても焼けないものが残ります」(三浦綾子著「海嶺」)と語って協力を願い、1年間寝食を忘れて翻訳に打ち込んだのです。それがギュツラフ訳のヨハネ福音書です。

  「焼かれても焼けないものが残ります。」真理は何ものによっても焼かれず滅ぼされない。焼かれても焼かれないものがある。この言葉が音吉たちの心を強く打ち、協力に踏み切らせたのです。

  教会は、「神が御子の血によって御自分のものとなさった」のです。教会は神が主宰する神の教会です。火も炎も、何ものも神から私たちを引き離せません。別の言葉で言えば、教会は十字架の上に打ち建てられている。だから揺るぎない。

  この教会の「世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と、パウロは語ったのです。


        (つづく)


                                           2019年4月28日



                                           板橋大山教会  上垣勝



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長老の目に光った涙


                    エッフェル塔を望む。ノートルダムを記念して     右端クリックで拡大
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                                                  役員の使命 (2)
                                                  使徒言行録20章28節



                                 (1)
  パウロはエフェソ長老たちを前に、こう切り出しました。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」

  パウロの言葉を耳にして長老らは深く頷いたでしょう。彼はエフェソとその周辺で、ユダヤ人などの数々の陰謀に遇いながらもそれに負けず、全力を尽くして、主にお仕えして来たのを目にして来たからです。「自分を全く取るに足りない者と思い」とありましたが、どんな分野でも人は指導的地位に着くと、何かしら偉そうな態度が現れて来ますが、彼は指導者であるに拘わらず、謙遜の限りを尽くして働いて来たことを長老らはよく知っていたのです。

  彼は口先でなく、自分は、主の恵みを入れるには不十分な、取るに足らぬ土の器であることを、涙を流し、恥じつつも、主にお仕えしたのです。それほど彼はキリストの赦しと恵みに圧倒され、心打たれ感謝していたからです。

  そして皆さんに、「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」と語りました。

  皆さんの役立つこと、皆さんを通して主の栄光が現わされることは全て、お伝えしました。それを2点に絞れば、神への悔い改めと、イエスに対する信仰です。この2つを最も大事なこととしてお伝えし、ユダヤ人、ギリシャ人の区別なく、ためらわず大胆に語って来ましたと述べたのです。そして今、「わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」と語りました。

  彼は、前途に何が待っているかを話したのです。将来の事は誰も分かりませんが、あちこちの町で聖霊が自分に教えて下さるのは、投獄と苦難、迫害が待っている事ですと、率直に語り、神が私に「決められた道を走りとおし、…主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しする任務を果たすことができさえすれば、この命は惜しいとは思いません。今、あなたがたが二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」と語りました。

  この言葉を耳した長老たちの目に涙が光ったかも知れません。エフェソの長老たちにミレトスに来てもらった最大の理由は、ここにあったでしょう。一般の信徒や一般の人にパウロの投獄や殉教の死を語って、要らぬ不安を煽り立てる必要はないからです。また、長老たちにはパウロ亡き後への覚悟を決めてもらいたいからです。この時代の長老は特別な資格を持つ人ではなかったでしょうが、それでも教会の屋台骨をなす人たちです。エフェソ教会の柱となり中心をなす人たちが動揺せず、今後の教会のために腹をくくって会員一同と進んで欲しいからです。

  ここにはパウロの生涯を貫いて来た、神の恵みの福音を力強く証しするという使命、命をも惜しまずそれを語るという使命感が見て取れます。ただ彼はそれを引きつった顔で語っているのではありません。あくまでも「神の恵みの福音」を語り得さえしたらと言っているように、それは神の恵みへの感謝の行為であり、喜びの行為です。彼は神からの使命を今後もひるまず喜びをもって貫いて行く故に、投獄と苦難、迫害が待っているというのです。いや、その結果、「二度と皆さんは私の顔を見る事はないでしょう」と言うのです。


        (つづく)


                                           2019年4月28日



                                           板橋大山教会  上垣勝



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心豊かな生活


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                                                  役員の使命 (1)
                                                  使徒言行録20章28節



                                 (序)
  パウロは仲間たちと、ギリシャマケドニア、現在のヨーロッパ側からアジア側に帰って来て、トルコの西岸の多島海を南下し、サモトラケのニケで有名なサモトラケ島、トロイの木馬で有名なトロイの近郊トロアス、アソス、キオス島など、島陰を縫うようにしてミレトスに着いたのです。約300キロの船旅でした。パウロは途中、トロアスからアソス迄は皆から離れて独りで徒歩旅行し、アソスで再び合流して、ミレトスに着いたのでした。彼はウオーキングが好きだったんでしょうか。確かにウオーキングは雑念が取れ、心が単純になり、今一番大事なものも少し突き放して心を向けることが出来ます。

  今日の個所は、このミレトスにエフェソの長老たちを呼んで彼らに別れの言葉を述べた所ですが、17節を見ますと、「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた」とあります。彼はどうしてエフェソに直接寄らずに、エフェソの長老らを約50キロ離れたミレトスに呼んだのか。彼はこの徒歩旅行の間に、エフェソ教会を今後長老たちに託するにあたって、どうすればよいかを熟慮したのでないかと思います。

  彼は長い船旅で疲労してエフェソまで足をのばさなかったのでも、先を急ぐ旅であったからでもなく、長老らを呼び寄せて彼らにだけ話すことによって、長老の責任感を今一度、強く自覚してもらいたかったからでないでしょうか。先ほどお読み頂いた28節に、「聖霊は…あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と語っていることからも、エフェソの一般信徒たちがいる所で長老らに話すのでなく、ミレトスに来てもらって話すことで、より長老の自覚を持ってもらえるのでないかと思ったのでしょう。

  確かに長老らがミレトスに行けば、数日間、商売や仕事を休んで数10キロを色々おしゃべりし交わりを深めながら歩いて来て、パウロの話を聞いた後、帰路はパウロの言葉を色々思って話題に取り上げながら、それを何度も反芻しながら家路につくわけで、パウロの願いが強く彼らの心に留まるでしょう。昔の方がのんびりして心豊かな生活があったのかも知れません。

        (つづく)


                                           2019年4月28日



                                           板橋大山教会  上垣勝



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貧しくても豊かに生きる


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                                                  死者の中におられない (下)
                                                  ルカ24章1—12節



                                 (2)
  さて今日の個所の後、13節以下に、エマオに降る2人の弟子たちに現れた、復活のイエスの出来事が出て来ます。その2人がエルサレムに急いで引き返して、エマオ途上で起こった事やパンを裂いて下さった時に目が開けてイエスだと分かったことなどを仲間に話していると、36節以下になって、イエスご自身が部屋に入って来て弟子たちの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた話が出て来ます。

  だがその時も、彼らは、「亡霊を見ている」と思ったとあります。そこでイエスは、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい」と語って、手と足とをお見せになったと書かれています。

  現代人は復活と聞くと薄笑いをされるので、「私は復活を信じています」と中々率直に言いづらい所がありますが、2千年前の弟子たちも戸惑ったのです。彼らは復活のイエスの前でさえ、うろたえ、疑い、ためらい、恐れ、おののき、不思議がり、彼らも夢か幻か、幽霊を見ているとさえ思って中々信じ難かったのです。復活というのは古代人の妄想だなどと上から目線で言いますが、古代人自身もうろたえたと聖書が記すのは、復活はあるのかないのか、現代人の批判が必ずしも正鵠を得ていない事を窺わせられます。

  弟子たちの戸惑いに遇ってイエスは何をされたか。「手や足を見」せられたのです。聖書がここで語ろうとするのは、復活のイエスには手足があり、亡霊でないだけではないという事です。復活のイエスは、手足にハンマーで打ち付けられた5寸釘の傷があり、それをお見せになったのです。イエスは傷や痛みのない、苦難や悩みと無関係な方ではありません。私たち人類の苦難や悩み、傷や痛みを思いやるに十分な方です。ところが、そのお方が、五寸釘で手足を何か所も貫かれた傷を持ちながら、ご自分のことは後まわしにして、「あなたがたに平和があるように」と語って、彼らの真ん中、私たち人類の真ん中に入って来て立たれたと聖書は告げるのです。

  怨みごとを言えば切りがありません。イエス様以上に怨みごとを言える人はないでしょう。何の罪もないのに磔(はりつけ)にされたのです。だが決して恨みを言われません。重傷の傷を、手足にも脇腹にも持ちながら、平和を語られるのです。「平和の主」、平和のイエスとはそういうお方です。へなへな笑っているイエスが平和のイエスでなく、人々の傷を癒し、人の汚れた足を洗い、重荷を負う人を励まし、弱っている人を支えるために、私たちの真ん中に来て、いわばドロドロに泥まみれになって「あなた方に平和があるように」と、ご自分の痛みには少しも触れずに語られる方が平和のイエスです。それが復活のイエスです。

  別の所から言えば、イエスの復活の聖書が私たちに語るのは、死は敗北でも滅亡でもないということでしょう。理性では理解しがたい事ですが、死は死で終わらないと言うことです。イエスガリラヤにおられたころ、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われた」のです。そして48節では、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と語られたとあります。「あなた方」とは、イエスの弟子です。信じる者たち全てです。

  十字架と死、そして復活。そこからあなた方は証人として新しい出発をする。イエスは、いわば完全に終った所から新しく始められる方です。いったん終った筈なのにそこから始めるのです。万事休すという所から始めて下さる。

  いつかどなたかが玉葱の水栽培を持って来て、そこの丸テーブルに置いておられたことがありました。しばらく置いておられましたが、白い根っこが出ている玉葱はそのうち腐りました。しかし腐り始めた時、新しい玉葱が生まれ始めていました。

  イエスと玉葱を比べるのは可笑しいですが、イエスにおいて死は敗北でも滅亡でもなく、その終った所から新しい出発が始まる。そしてユダヤ人に留まらずあらゆる国の人に宣べ伝えられ、福音を信じる全ての人にとっても、死は敗北でも滅亡でもなく、その終った所から始まる新しい出発になると言われるのです。

  全てのものは死で終りますが、イエスにおいては死で終らない。希望が前方にあり、死の先に新しい生があるのです。それはイエスの復活が弟子たちの真ん中に立って証しされたことだ言っていいでしょう。

  格差社会がどんどん進んでいます。年収10億円、100億円の人たちが日常的に話題になったり、贅(ぜい)を尽くしたシャレた屋敷に住む人たちを紹介するテレビ番組があったりします。セレブというのでしょうか。もう、ため息が出ますね。

  しかし、それに参っちゃあならないと思います。豪勢な生き方をする威勢のいい人たちが、弱い者を少しも気に留めずに、しかもタックスヘブンなどで税金を払わず生きていたりします。そんな記事を読むと嘆かわしいと思いますが……

  しかし、私たちは格差社会に苦しむことがあっても、やせ我慢でなく、どっこい「平和をもって」生きているということを示して行きたいと思います。そう言う人たちより、人生を粘り強く、意味深く生きればいいのです。少しぐらい貧しくても、そこで人生をいかに豊かに生きるかが大事だし、それを「平和のキリスト」は与えて下さるのです。

  質素であっていい。その質素さの中にも豊かさがあります。質素でもその中で豊かさや美しさを作り出す在り方。私がテゼのブラザーたちから学んできた一つの事はこの事です。質素さの中にも美があるのです。金があって物にあふれても、美は生まれるとは限りません。平和が生まれるとは限りません。

  少しぐらいの貧しさを恐れてはなりません。恐れず、愛のある生活を築いていく。愛が具体化する生活を作っていきたいと思います。寂しい人、孤独な人が沢山います。家内は何か月も前から、93才のおばあちゃんと友達になりました。一緒に牧師館で毎週、他の方も来て音楽に合わせて体操しています。毎月、歌舞伎座のいい席で歌舞伎を見ている方です。知識も才もある方のようですが、殆ど優しく声を掛けてくれる人がいない。友になってくれる人がいない。で、喜んでいそいそと牧師館に来られます。それは若い人の間でも似たり寄ったりではないでしょうか。

  お金は必要ですが、人生の幸福はお金ではありません。「平和があるように」と言って入って来られる手足にも脇腹にも重い傷を持ったイエスと共に、自信を持って友となって、大手を振って生きたいと思います。

  41節以下に、イエスは、手足を見せてもまだ信じられない弟子たちに、「何か食べ物があるか」とおっしゃって、誰かが焼き魚を持って来たので、その一切れを、皆の前でムシャムシャ食べられたとあります。実に滑稽な場面ですが、この出来事が示すことは、復活のキリストは亡霊でなく、幻想でもないということです。焼き魚を食らう程に現実的な方であり、リアリティを持って今も生きている方であると言うことです。焼き魚をムシャムシャ食べることで示される復活のキリストは、私たちの食卓にも、日常生活にも来て、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃる方であるのです。

  平和の主に従って、私たちも私たちが置かれた場所に、平和を作り出す者とさせて頂きましょう。

        (完)

                                           2019年4月21日




                                           板橋大山教会  上垣勝



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復活を信じられない正直な姿


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                                                  死者の中におられない (上)
                                                  ルカ24章1—12節



                                 (1)
  イエス様の十字架の死後、3日たち、婦人たちは墓に行ったのです。遺体に香料を塗って、せめてもの小さな奉仕でお慰めしたい。心からお慕いした方の死を悼み、救い主と仰ぐキリストに対するささやかな愛をお捧げしようとしたのです。

  ところが墓に着いてみると、墓は空(から)で、遺体がありませんでした。彼らは人気(ひとけ)のない寂しい墓地で、途方に暮れたのです。私たちは時に思いがけない事に出会って、これまでの知識も力も誠意も、人間関係も全く役立たず、途方に暮れることがあります。人気(ひとけ)がないのでなく、周りに人が沢山いても役に立たないことも起こります。

  この情愛の深い、しっかり者の婦人たちも、墓が空で、香料を塗ってお別れしたいと来たのにご遺体がない。途方に暮れ、どうすればいいのか分からなくなったのは当たり前でしょう。

  するとそこに、輝く衣を着た2人の人が現れ、恐れて顔を伏せると、彼らは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と語りました。

  2人は神のみ使いでしょうが、彼らの言い方に注目してみると、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と、まるでみ使いの方が驚いた様子です。どうして皆さんはこんな所に来ているのですか。ここは墓地ですよ。遺体が置かれる場所です。あなた方は、なぜ復活した方をこんな所で探しているのですか。婦人たち以上に驚き呆れたのです。み使いの驚きには、色々な意味が含まれています。

  あの方は、まだガリラヤにおられたころ、お話しになったではありませんか。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると。

  あの方と出会うために墓に来るなんて、どうしてですか。あの方は死者の中におられません。あの方は、死の力を打ち破り、墓石を蹴散らして、復活しておられます。この場所は死が支配し、悲しみと絶望が辺りを独占しています。ここにあるのは、沈黙と人生の終わりだけです。

  だがあの方は、人々に希望を授ける方です。新しい力を、命を、勝利の喜びを、絶望を打ち破る力を授ける方です。あの方は死者の中におられません。

  み使いの言葉はこうとも取れます。生きた方を死者の中に探すから、途方に暮れるのです。無の中に有を求めて、あってくれと期待して探すから、ないのです。空しさや空(くう)をどんなに掘り進んでも真理に到達しません。死を正当化して、自分を何とか納得させようとして色々なことが言われ、生死の溝を埋めるために色々な本で大昔から説かれていますが、それでも空しさは残ります。希望の神は、こんな所に、おられる筈がないのです。

  イエスは死んで、復活されました。その死と復活には分離はありません。復活されたキリストを介して、愛する者の死を考える時、彼らの死は残された私たちより一足早く復活のイエスにお会いする時です。また、私たち自身も復活に向かって、これまで以上に心を向け、望みを固くするきっかけになります。

  「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」とは、こういう様々なニュアンスがある深い意味を持っています。

  ところで、婦人たちはご遺体に香油を塗ってお別れしよう。それを葬りの式に代えようとしていたでしょう。しかし、イエスはお祀(まつ)りされる方ではありません。イエスは、復活して私たち人類と共に生きておられる方だからです。問題が数々襲う現実社会に生きる私たちと、共に悩み、共に生きて下さる方です。お祀りして、お弔いして、線香をあげてと、そういう方ではないのです。

  そこで婦人たちは、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と言われてイエスの言葉を思い出し、墓から帰り、「11人とほかの人皆に一部始終を知らせた」のです。

  ところが彼らの話を聞いた使徒たちは、「たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあります。婦人らは復活の最初の証言者になったのに、何をとぼけた話をするんだ。全くバカバカしい、ナンセンスだと、普通の男ではありません、使徒たちなのに取り合おうとせず、一蹴(いっしゅう)したのです。

  女性、子どもは証言者の資格なしという態度だったのです。当時の女性差別の社会を反映するものであったでしょう。

  ただペトロは、彼女たちの話を聞いていたが、無言でサッと立ち上がって墓へ走り、身を屈めて中をのぞくと、墓は空っぽで白い亜麻布しかなかったので、何が起こったのだろうと訝(いぶか)り、「驚きながら」帰って来たのです。ただ彼の驚きも、復活の喜びの驚きではありません。復活の喜びに与るには、この後もしばらく待たねばなりませんでした。

  以上が、「死者の中におられない」という言葉の前で、イエスを慕う女や男の姿であったという事です。一言で言えば、復活を信じられない人間の正直な姿です。


        (つづく)

                                           2019年4月21日




                                           板橋大山教会  上垣勝



  ヤフーの板橋大山教会ホームページは、2019年3月31日で終了しました。

  後日、ホームぺー作成の予定。

育てたいなら愛情が要る


                  ノートルダム内陣を飾る何枚ものレリーフも焼け落ちました
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                                                 水の上にパンを投げよ (4)
                                                 コヘレト11章1-6節



                                 (3)
  次は、「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない」とあります。

  胎児の成長については、現代ではかなり詳細に分かっています。しかし、人の心や霊がどう発展するのか、いくら心理学が進んでも、個々人の心の動きや発展がどう変化するのか、つぶさに見るのは不可能です。ましてや神の業がどこで、どう働き、どう導かれるか、分かる筈がないでしょう。

  そこで6節が勧めます。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」これは無論、ブラック企業の肯定や長時間労働の勧めではありません。神の業は分からないゆえ、せっせと種を蒔き、今、すべきことに力を尽くす。むろん、「すべての事には時がある」とコヘレトは語りますから、熟した時を選ぶのは大切ですが、必要以上に時を気にしてはならないのです。

  横に逸れましたが、ここで言われているのは実際の種蒔きを譬えに、私たちのなす労苦は、どれが芽を出し、どれが実を結ぶか分からない。2つとも実を結ぶかも知れないし、小さい芽が大きく育つかも知れません。だから、どこにいても、絶えず種を蒔き続ける。手を休めない在り方。時が良くても悪くてもみ言葉を語りなさいと言われていますが、こういう在り方は大切です。

  これまで花の苗や植木鉢の花を買っていましたが、今年は教会の小さい庭の片隅を耕して初めて花の種を蒔きました。種を蒔いて気づいたのは、毎日のように水を遣ったり雑草を抜いて、手を休めないでいることです。どの種が育つか。あれもこれも育つのか育たないかさっぱり分かりません。愛情を注がないと育たないと思っています。私たちが一から育てたいものはすべて愛情が要ります。

  この礼拝後、教会総会があります。過ぎた1年を感謝し、次の1年に向かって歩み出しましょう。総会資料に書きましたが、初代の大塩先生が昨年2月に天に召され、大山教会を担う足腰の強い信徒たちの中、何人もが立て続けに召されて礼拝出席が減少し、今、私たちの教会は新しい時代に入りました。経済面でも予算をかなり削るという苦しい時代に入りましたが、信仰によってよく持ちこたえて、この転換期を乗り越えて行きましょう。イエス様が、「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であった…」と言って下さるように、信仰において腹をくくって、主にお仕えしましょう。眉間(みけん)にしわを寄せ、目を吊り上げて一生懸命になろうと言うのではありません。主が私たちと歩んで下さっていますし、状況を一番よく知っておられるのはキリストです。しかもなおかつ、「恐れるな。小さな群れよ。御国を下さることはあなた方の父のみ心である」と約束して下さっているのですから、落ち着いた穏やかな気持ちで、精一杯力を出して乗り越えて行きたいと思います。

  精一杯力を出してと言っても逆立ちするのでなく、去年と同様の基本的な事を呼びかけたいと思います。出席しているすべての皆さん、①聖書によって養われること、②努めて礼拝に集うこと、③信仰の交わりを大切にすること、④祈りの生活を立て直すことに努めましょう。聖書と礼拝と交わりと祈りです。この4つを、各自の課題に掲げて歩みましょう。私たちの教会が60年間キリストの命を燃やし続けることが出来たのは、聖書に熱心に養われ、日曜日の礼拝を信仰と生活の中心に据えて生きる人々がいたからです。この信仰の遺産をしっかり継承しましょう。これを継承すれば困難があっても乗り越えて行けます。

  先程から色々の例を挙げてお話したので十分意味はお分かりでしょう。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。」「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」

  これらは、今、大山教会に向けて語られている神の愛の言葉だと思います。愛されているのです。私たちもイエス様を愛し、この教会を愛して行きましょう。

         (完)

                                           2019年4月14日



                                           板橋大山教会  上垣勝



  ヤフーの板橋大山教会ホームページは、2019年3月31日で終了しました。

  後日、ホームぺー作成の予定。