焼かれても焼けないもの


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                                                  役員の使命 (3)
                                                  使徒言行録20章28節



                                 (2)
  こうして今日の28節に入り、いよいよ長老の使命。今日の言葉で言えば、エフェソ教会の役員の使命を簡潔に述べます。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」

  ここでは、長老を「群れの監督者」と呼び換えていますが、長老、監督者、群れの羊飼いなどという言葉は、同じ人たちを3つの側面から言い表したもので、今日の教会役員を指すと言って、大きな間違いではありません。当時はまだ教会が誕生したばかりで、教会組織や制度は整っていませんし、牧師制度もありませんから、長老や監督は一般信徒でありつつ、牧師の一部の役割も担っていたでしょう。

  先ず、「あなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい」です。長老や役員は、自分の生き方、己の信仰に先ず気を配らねばなりません。それなしに、群れ全体の事に気を配ることは出来ません。自分を外さず考えると、人間の弱さ、躓き、醜さ、不決断、小心、不誠実、罪の数々の事を教えられます。今は全うな人間で生活も順調であっても、かつては語るも恥ずかしい生活をしていたかも知れません。あるいは傲慢だったかも知れません。「汝自身を知れ」と言われますが、自分自身です。自分自身と対面する時、パウロのように、自分は全く取るに足りない者であること、土の器であることを痛感するでしょう。しかしそれと共にキリストの恵みの大きさも分からせて頂くでしょう。

  その様にして、群れ全体の事に気を配ることが可能になります。礼拝の司式で、「牧会祈祷をします」と言われますが、その祈りはこの羊の群れ全体の事を覚えて祈ることであり、町の人たちや今日の世界の人たちも、神から見れば群れの羊と考えて、執り成しの祈りをさせて頂くことです。いまだ神を知らない人たちも神にとっては愛する羊の群れです。

  群れ全体です。出来るだけ全体の方々に公平に気を配り、執り成す。大事故を起こしたが警察に連絡せず、息子への連絡を優先した人がいましたが、それは本当に残念です。ある分野では冠たる高名な権威者だそうですが、人間は何事も正直でなければなりません。自分を優先して真っ先に保身に走ったり、自分の事だけで完結せず、もっと広く群れ全体に気を配る。教会の成長のために群れを慈しみ、手塩にかけて育てる態度です。この心掛けが大事です。「気を配る」とあるのは、羊飼いが群れの状態、群れ全体の個々の羊の状態に気を配ること、また保護する事を意味します。

  パウロは次に、「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と語りました。

  「御自分のものとなさった」とは、買い取ったという意味です。誰から買い取ったか。この世から、罪の世界から買い取ったのです。エフェソ教会の一人一人は、悪の世、罪の世から、神のみ子キリストの血で神の許へと買い取られた人たちです。今も肉体は地上にあり、罪のこの世にありますが、その本質は既にキリストの血で永遠に神の国へ贖い取られています。私たちは既にキリストのもの、神のものです。誰も神から引き離すことは出来ません。世の力が引き離そうとしても、それでも決して引き離されないのです。

  日本語聖書の最初の翻訳はギュツラフがマカオで訳した和訳聖書です。江戸時代に遠州灘で遭難した岩吉、久吉、音吉の3人の漁師が約1年2か月後、奇跡的にアメリカに漂着し、やがてイギリス廻りで世界を一周してマカオに着き、彼らが聖書和訳の手伝いをして完成します。しかし当時はキリシタン禁制で、聖書を持ち込むことは極めて危険です。翻訳に手を貸したと分かっただけで、直ちに打ち首。聖書もすべて焼かれます。

  ところがギュツラフはそれを承知で、「分かっています。お国の事情は。けれども神の言葉は残ります。焼かれても焼けないものが残ります」(三浦綾子著「海嶺」)と語って協力を願い、1年間寝食を忘れて翻訳に打ち込んだのです。それがギュツラフ訳のヨハネ福音書です。

  「焼かれても焼けないものが残ります。」真理は何ものによっても焼かれず滅ぼされない。焼かれても焼かれないものがある。この言葉が音吉たちの心を強く打ち、協力に踏み切らせたのです。

  教会は、「神が御子の血によって御自分のものとなさった」のです。教会は神が主宰する神の教会です。火も炎も、何ものも神から私たちを引き離せません。別の言葉で言えば、教会は十字架の上に打ち建てられている。だから揺るぎない。

  この教会の「世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と、パウロは語ったのです。


        (つづく)


                                           2019年4月28日



                                           板橋大山教会  上垣勝



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  後日、ホームぺー作成の予定。