復活を信じられない正直な姿


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                                                  死者の中におられない (上)
                                                  ルカ24章1—12節



                                 (1)
  イエス様の十字架の死後、3日たち、婦人たちは墓に行ったのです。遺体に香料を塗って、せめてもの小さな奉仕でお慰めしたい。心からお慕いした方の死を悼み、救い主と仰ぐキリストに対するささやかな愛をお捧げしようとしたのです。

  ところが墓に着いてみると、墓は空(から)で、遺体がありませんでした。彼らは人気(ひとけ)のない寂しい墓地で、途方に暮れたのです。私たちは時に思いがけない事に出会って、これまでの知識も力も誠意も、人間関係も全く役立たず、途方に暮れることがあります。人気(ひとけ)がないのでなく、周りに人が沢山いても役に立たないことも起こります。

  この情愛の深い、しっかり者の婦人たちも、墓が空で、香料を塗ってお別れしたいと来たのにご遺体がない。途方に暮れ、どうすればいいのか分からなくなったのは当たり前でしょう。

  するとそこに、輝く衣を着た2人の人が現れ、恐れて顔を伏せると、彼らは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と語りました。

  2人は神のみ使いでしょうが、彼らの言い方に注目してみると、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と、まるでみ使いの方が驚いた様子です。どうして皆さんはこんな所に来ているのですか。ここは墓地ですよ。遺体が置かれる場所です。あなた方は、なぜ復活した方をこんな所で探しているのですか。婦人たち以上に驚き呆れたのです。み使いの驚きには、色々な意味が含まれています。

  あの方は、まだガリラヤにおられたころ、お話しになったではありませんか。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると。

  あの方と出会うために墓に来るなんて、どうしてですか。あの方は死者の中におられません。あの方は、死の力を打ち破り、墓石を蹴散らして、復活しておられます。この場所は死が支配し、悲しみと絶望が辺りを独占しています。ここにあるのは、沈黙と人生の終わりだけです。

  だがあの方は、人々に希望を授ける方です。新しい力を、命を、勝利の喜びを、絶望を打ち破る力を授ける方です。あの方は死者の中におられません。

  み使いの言葉はこうとも取れます。生きた方を死者の中に探すから、途方に暮れるのです。無の中に有を求めて、あってくれと期待して探すから、ないのです。空しさや空(くう)をどんなに掘り進んでも真理に到達しません。死を正当化して、自分を何とか納得させようとして色々なことが言われ、生死の溝を埋めるために色々な本で大昔から説かれていますが、それでも空しさは残ります。希望の神は、こんな所に、おられる筈がないのです。

  イエスは死んで、復活されました。その死と復活には分離はありません。復活されたキリストを介して、愛する者の死を考える時、彼らの死は残された私たちより一足早く復活のイエスにお会いする時です。また、私たち自身も復活に向かって、これまで以上に心を向け、望みを固くするきっかけになります。

  「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」とは、こういう様々なニュアンスがある深い意味を持っています。

  ところで、婦人たちはご遺体に香油を塗ってお別れしよう。それを葬りの式に代えようとしていたでしょう。しかし、イエスはお祀(まつ)りされる方ではありません。イエスは、復活して私たち人類と共に生きておられる方だからです。問題が数々襲う現実社会に生きる私たちと、共に悩み、共に生きて下さる方です。お祀りして、お弔いして、線香をあげてと、そういう方ではないのです。

  そこで婦人たちは、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と言われてイエスの言葉を思い出し、墓から帰り、「11人とほかの人皆に一部始終を知らせた」のです。

  ところが彼らの話を聞いた使徒たちは、「たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあります。婦人らは復活の最初の証言者になったのに、何をとぼけた話をするんだ。全くバカバカしい、ナンセンスだと、普通の男ではありません、使徒たちなのに取り合おうとせず、一蹴(いっしゅう)したのです。

  女性、子どもは証言者の資格なしという態度だったのです。当時の女性差別の社会を反映するものであったでしょう。

  ただペトロは、彼女たちの話を聞いていたが、無言でサッと立ち上がって墓へ走り、身を屈めて中をのぞくと、墓は空っぽで白い亜麻布しかなかったので、何が起こったのだろうと訝(いぶか)り、「驚きながら」帰って来たのです。ただ彼の驚きも、復活の喜びの驚きではありません。復活の喜びに与るには、この後もしばらく待たねばなりませんでした。

  以上が、「死者の中におられない」という言葉の前で、イエスを慕う女や男の姿であったという事です。一言で言えば、復活を信じられない人間の正直な姿です。


        (つづく)

                                           2019年4月21日




                                           板橋大山教会  上垣勝



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