貧しくても豊かに生きる


                      ノートルダムを記念して。内陣       右端クリックで拡大
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                                                  死者の中におられない (下)
                                                  ルカ24章1—12節



                                 (2)
  さて今日の個所の後、13節以下に、エマオに降る2人の弟子たちに現れた、復活のイエスの出来事が出て来ます。その2人がエルサレムに急いで引き返して、エマオ途上で起こった事やパンを裂いて下さった時に目が開けてイエスだと分かったことなどを仲間に話していると、36節以下になって、イエスご自身が部屋に入って来て弟子たちの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた話が出て来ます。

  だがその時も、彼らは、「亡霊を見ている」と思ったとあります。そこでイエスは、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい」と語って、手と足とをお見せになったと書かれています。

  現代人は復活と聞くと薄笑いをされるので、「私は復活を信じています」と中々率直に言いづらい所がありますが、2千年前の弟子たちも戸惑ったのです。彼らは復活のイエスの前でさえ、うろたえ、疑い、ためらい、恐れ、おののき、不思議がり、彼らも夢か幻か、幽霊を見ているとさえ思って中々信じ難かったのです。復活というのは古代人の妄想だなどと上から目線で言いますが、古代人自身もうろたえたと聖書が記すのは、復活はあるのかないのか、現代人の批判が必ずしも正鵠を得ていない事を窺わせられます。

  弟子たちの戸惑いに遇ってイエスは何をされたか。「手や足を見」せられたのです。聖書がここで語ろうとするのは、復活のイエスには手足があり、亡霊でないだけではないという事です。復活のイエスは、手足にハンマーで打ち付けられた5寸釘の傷があり、それをお見せになったのです。イエスは傷や痛みのない、苦難や悩みと無関係な方ではありません。私たち人類の苦難や悩み、傷や痛みを思いやるに十分な方です。ところが、そのお方が、五寸釘で手足を何か所も貫かれた傷を持ちながら、ご自分のことは後まわしにして、「あなたがたに平和があるように」と語って、彼らの真ん中、私たち人類の真ん中に入って来て立たれたと聖書は告げるのです。

  怨みごとを言えば切りがありません。イエス様以上に怨みごとを言える人はないでしょう。何の罪もないのに磔(はりつけ)にされたのです。だが決して恨みを言われません。重傷の傷を、手足にも脇腹にも持ちながら、平和を語られるのです。「平和の主」、平和のイエスとはそういうお方です。へなへな笑っているイエスが平和のイエスでなく、人々の傷を癒し、人の汚れた足を洗い、重荷を負う人を励まし、弱っている人を支えるために、私たちの真ん中に来て、いわばドロドロに泥まみれになって「あなた方に平和があるように」と、ご自分の痛みには少しも触れずに語られる方が平和のイエスです。それが復活のイエスです。

  別の所から言えば、イエスの復活の聖書が私たちに語るのは、死は敗北でも滅亡でもないということでしょう。理性では理解しがたい事ですが、死は死で終わらないと言うことです。イエスガリラヤにおられたころ、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われた」のです。そして48節では、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と語られたとあります。「あなた方」とは、イエスの弟子です。信じる者たち全てです。

  十字架と死、そして復活。そこからあなた方は証人として新しい出発をする。イエスは、いわば完全に終った所から新しく始められる方です。いったん終った筈なのにそこから始めるのです。万事休すという所から始めて下さる。

  いつかどなたかが玉葱の水栽培を持って来て、そこの丸テーブルに置いておられたことがありました。しばらく置いておられましたが、白い根っこが出ている玉葱はそのうち腐りました。しかし腐り始めた時、新しい玉葱が生まれ始めていました。

  イエスと玉葱を比べるのは可笑しいですが、イエスにおいて死は敗北でも滅亡でもなく、その終った所から新しい出発が始まる。そしてユダヤ人に留まらずあらゆる国の人に宣べ伝えられ、福音を信じる全ての人にとっても、死は敗北でも滅亡でもなく、その終った所から始まる新しい出発になると言われるのです。

  全てのものは死で終りますが、イエスにおいては死で終らない。希望が前方にあり、死の先に新しい生があるのです。それはイエスの復活が弟子たちの真ん中に立って証しされたことだ言っていいでしょう。

  格差社会がどんどん進んでいます。年収10億円、100億円の人たちが日常的に話題になったり、贅(ぜい)を尽くしたシャレた屋敷に住む人たちを紹介するテレビ番組があったりします。セレブというのでしょうか。もう、ため息が出ますね。

  しかし、それに参っちゃあならないと思います。豪勢な生き方をする威勢のいい人たちが、弱い者を少しも気に留めずに、しかもタックスヘブンなどで税金を払わず生きていたりします。そんな記事を読むと嘆かわしいと思いますが……

  しかし、私たちは格差社会に苦しむことがあっても、やせ我慢でなく、どっこい「平和をもって」生きているということを示して行きたいと思います。そう言う人たちより、人生を粘り強く、意味深く生きればいいのです。少しぐらい貧しくても、そこで人生をいかに豊かに生きるかが大事だし、それを「平和のキリスト」は与えて下さるのです。

  質素であっていい。その質素さの中にも豊かさがあります。質素でもその中で豊かさや美しさを作り出す在り方。私がテゼのブラザーたちから学んできた一つの事はこの事です。質素さの中にも美があるのです。金があって物にあふれても、美は生まれるとは限りません。平和が生まれるとは限りません。

  少しぐらいの貧しさを恐れてはなりません。恐れず、愛のある生活を築いていく。愛が具体化する生活を作っていきたいと思います。寂しい人、孤独な人が沢山います。家内は何か月も前から、93才のおばあちゃんと友達になりました。一緒に牧師館で毎週、他の方も来て音楽に合わせて体操しています。毎月、歌舞伎座のいい席で歌舞伎を見ている方です。知識も才もある方のようですが、殆ど優しく声を掛けてくれる人がいない。友になってくれる人がいない。で、喜んでいそいそと牧師館に来られます。それは若い人の間でも似たり寄ったりではないでしょうか。

  お金は必要ですが、人生の幸福はお金ではありません。「平和があるように」と言って入って来られる手足にも脇腹にも重い傷を持ったイエスと共に、自信を持って友となって、大手を振って生きたいと思います。

  41節以下に、イエスは、手足を見せてもまだ信じられない弟子たちに、「何か食べ物があるか」とおっしゃって、誰かが焼き魚を持って来たので、その一切れを、皆の前でムシャムシャ食べられたとあります。実に滑稽な場面ですが、この出来事が示すことは、復活のキリストは亡霊でなく、幻想でもないということです。焼き魚を食らう程に現実的な方であり、リアリティを持って今も生きている方であると言うことです。焼き魚をムシャムシャ食べることで示される復活のキリストは、私たちの食卓にも、日常生活にも来て、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃる方であるのです。

  平和の主に従って、私たちも私たちが置かれた場所に、平和を作り出す者とさせて頂きましょう。

        (完)

                                           2019年4月21日




                                           板橋大山教会  上垣勝



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