暴力と福音


21才のミャンマーの青年ティ・レイ君は、兵士たちから村が襲撃された時、家族と逃げました。逃亡中、汚い水で家族達とこの1本の歯ブラシを使っていたと言います。昔、靴墨を塗るのに使ったようなボロボロになった歯ブラシでした。「難民の持ちもの展」から。
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                                                 暴行を受けるキリスト (下)
                                                 ルカ22章63―65節


                             (2)
  イエスは身動きできないように縛られていたでしょう。そして目隠しをされ、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねられて、その他、様々なことを言って罵られました。

  体を縛られたり手錠を掛けられたりすれば、全くされるままで何をされても避けることができません。嬲(なぶり)り者にされるままです。その上、目隠しをされて嬲られる。目隠しされれば、いつどこから襲われるか分かりません。防御のしようがなく、不意にボディを入れられ、腹を蹴られれば内臓破裂もあり得ます。そう思うだけで私などは恐怖に晒(さら)されます。

  イエスは目隠しされて殴られ、「お前を殴ったのは誰か。言い当ててみろ」と言われました。65節のある英訳は、彼らは「様々な侮辱を積み上げた」となっています。すべてがすべて侮辱であり、それらの侮辱の積み上げです。キリスト、神の子と言われる者に対する容赦ないあけすけな中傷、侮蔑、侮辱を重ね、積み上げたのです。

  ところがイエスは一切それに抗弁しておられません。彼らの侮辱や暴力を肯定するためではありません。彼らの為すままに任せられたのです。「為すべからざるを為すに任せられた」とローマ書にあります。

  人間は堕落し、人間から堕ちることがあります。だが人はどれだけ堕ちても完全に人間でなくなり無になる訳ではありません。神を仰いでいた頃よりも小さな存在、歪んだ存在、横柄な存在、尊大な存在になるだけです。未だ神のご支配の下にいます。だから行為への責任が伴います。たとえ無限に無に近づいても責任を逃れられません。

  大祭司に仕える下役たちは、本来神に向かうことによって神と真理に対して従順になるべきですが、そもそも彼らはイエスを逮捕して処刑しようと企むその大祭司たちの庇護の下で、謙遜を失い、図々しく思い上がり、イエスを侮蔑して尊大になったのです。

  しかしイエスは侮蔑され、殴られ、様々な侮辱を次から次へと自分の身に積み上げられながら、抵抗せずなすままにされました。それは、いつの時代においても、苦しめられ、辱められ、人目に立たない密室の様な所で暴力を振るわれ、卑しめられている人々の傍らに立ち続けられるためです。彼らと痛みを共にし無念さを分かち合われるためです。彼らがいかに孤立し、哀れで、孤独に見えても、決して一人ではないことを示し、彼らと同じ孤立を共に味わうためにです。彼らを愛し連帯するためです。彼らが一人も失われないためです。

  「神、われらと共にいます。」暴力の肯定でなくまた暴力に暴力で仕返しするのでなく、「神、われらと共にいます」ことを全人類に証しするため卑しめられるままになられたのです。

  先日、「祈りのちから」というアメリカ映画の試写会に行きました。7月に渋谷の映画館で上映されます。

  主人公は40才ほどの主婦です。彼女は不動産会社のセールスをし、共稼ぎで夫との間に小学生の娘がいます。夫は医薬品会社の名だたるトップ・セールスマンで幸せそうな夫婦ですが、危機をはらんでいます。

  彼女が顧客のある老婦人と出会います。長く住み慣れた家を売りに出そうとしている婦人です。この老婦人は夫と死別しましたが、夫が死んでも長く許せなかった婦人でした。生前はずっと夫を憎み、反発し、責め続け、夫婦のいざこざが尽きず、自分の正しさを主張して来ました。むろん彼女の言い分はことごとく正しかったのです。だが夫の死後、暫らくして気づいたのです。

  自分は夫を許せなかった、夫の罪、夫の間違い、夫のやり方、ずっと夫を責め続けて来た。だがある時気付いたのです。自分の敵は夫でなく、夫との間を裂こうとする言わばサタンであったというのです。夫を責め続け、決して許せないし、許さないで、夫を愛さずにいた自分の罪が最大の問題であったと気付くのです。

  それに気付いた老婦人は、自分が犯した過ちを若い人たちが2度と犯さないように、祈りの小部屋の必要を説く伝道者になろうとするのです。彼女はウオーク・イン・クローゼットを祈りの小部屋に模様替えして、毎日神に向かうようになります。戦いは夫との間でなく、夫との間を裂こうとするサタンですから、どんなことがあっても夫を信頼すること。妻から信頼された夫は、妻を裏切れない。必ず何かの機会に良心に恥じて帰って来ると考えるのです。自分が夫と戦おうとするのでなく、神に戦って頂く。自分は一歩退き、夫に優しくして、キリストに信頼を寄せて、「神よ、戦って下さい。私の信仰を揺るぎないものにして下さい」と猛烈な祈りをしていきます。

  家族の一人が本当に救われて神の前に立つ時に家族全員が必ず救われる。だから自分が先ず神に救われる人になるというのでしょう。神に明け渡して神に戦って頂く人になるのです。そのために祈りの小部屋に入って神に祈り、自分と戦うのです。映画の原題は War room とありました。戦いの部屋です。

  それが主人公の若い主婦と夫、娘を救います。信仰的にも人間的にも失敗を繰り返し、遂に夫との和解も果たせないまま死別したその弱さの中にあった老婦人を神は用いて下さったのです。そして私たちをも主のご用のためにお用い下さるのです。

  感動的な場面が幾つかあり、私はこれから結婚する方々や若いご夫婦から、中年、老年を迎えるご夫婦もご覧になって欲しい見ごたえのある映画だと思いました。

  私は偶然この映画を見ながら、イエスは下役たちに嘲られ、殴られ、唾を吐きかけられ、「今殴ったのは誰か、言ってみろ。お前が神の子なら言ってみろ」などと、数々の侮辱を積み上げられながら、神に一切の裁きを委ね、侮辱する者たちのために祈っておられたのだと思いました。彼らの良心が何かのきっかけで福音に目覚めるためです。神に戦って頂くためです。

  神に戦って頂き、神が戦って下さる時、彼らは必ず痛切に悔やみ後悔する時が来るであろう。その時はいつ来るか分かりません。来ないかも知れない。だが、彼らの上に来たらせて下さいと愛によってキリストは忍耐し、神の福音を分からせて下さいとその日が来るのを待ちながら、侮辱を積み重ねられる度に祈りを倍して積み重ねられたと言ってよいでしょう。

  彼らと直接、暴力や論戦で戦おうとせず、神のご支配を待っておられたのです。ここに暴力の前に立つキリスト、暴力に立ち向かうキリストの福音が語られています。イエスは試練を受けながら、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と語られた言葉を自ら生きられたのです。

  2度、3度と失敗してもいいのです。失敗から大切なものを掴(つか)めばいい。祈りの小部屋を持って、日々、夫のために祈り、妻のために祈り、家族のために祈る。神が働き、解決し、戦って下さることを求めてしっかりと祈って行く。今日、その生き方が求められているのです。

         (完)

                                          2016年4月17日




                                          板橋大山教会 上垣 勝




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