首は打ち落とせても、魂まで打ち落とせない


                            加賀2丁目公園
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                                                裁判にかけられたイエス
                                                ルカ22章66-71節



                              (1)
  皆さん、朝は何時頃に起きられますか。6時前に起きる方は手を上げて…あっ、6人もいらっしゃるんですね。東の空が赤く染まる夜明けの美しさは、何度見ても素晴らしいものですね。空気は清々(すがすが)しく、新しい清純な朝に触れると誰しも元気が出ます。

  今日の最初に、「夜が明けると」とありました。2千年前のパレスチナも、今日と同じような夜明けの美しさがあったでしょう。しかし旧約聖書にはその美しさを歌う個所は幾つもありますが、新約聖書はそういう自然の美しさについては沈黙しています。それは人の問題と救いに集中しているからです。

  今日の所でも、「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった」と記して、いよいよイエスの最期の日が明けたことを記します。夜が明けましたが恐ろしいことが待っていましたし、前夜は色々なことが洪水のように押し寄せました。最後の晩餐の意味深い言葉が語られ、パンを受け取った弟子の一人がそそくさと夜の闇の中に消える姿があり、その足で大祭司たちのところに直行してイエスを売り渡す約束をします。その間にペトロに生涯忘れえぬ祈りの言葉が語られ、祈りの戦場とも言えるゲッセマネでのイエスの祈りがあり、ユダを先頭に松明を掲げて捕えに来た一群と逮捕、大祭司の中庭でペトロに起こった事などです。1夜にして、何十年分か煮詰まったようなことが起こりました。

  「民の長老会、祭司長たちや律法学者たち」というのは、ユダヤの最高議会とも言う最高法院サンヒドリンのメンバーです。彼らが集まると、「イエスを最高法院に連れ出して、『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った」のです。

  一睡もできない夜だったでしょう。サンヒドリンは71人で構成され、陪審員たちや見習生たち、証人たちも参加したので、100数十人が集まる最高法廷での陳述です。牙をむいて今にも飛びかからんとする野獣のように、彼らは隙を窺っていました。

  ところがイエスは何ら怯(おび)えることなく、悠然と立っておられ、彼らの問いに落ち着いて答えられたのです。

  最高議会の手続きは本来、現代流の疑わしきは罰せずとまではいかずとも、被告を保護するために被告に有利になっていたようです。だがイエスの尋問はそれを大きく逸脱するものでした。何が何でも有罪にし、死刑を宣告するためです。裁判長はその年の祭司長ですが、彼が中心になって議会全体が最高裁判所の権限を逸脱して断を下そうとしたのです。

  その一つが、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」という質問であり、「では、お前は神の子か」という誘導尋問です。またこの日、イエスは十字架に付けられますが、本来の裁判手続きでは、死刑判決の場合は、即決でなく一夜を置いて翌日に最終的判決を下すことになっていました。一晩で議員らの思いが変わることがありうるからです。だがイエスの場合は一夜を置かずその日直ちに死刑を執行します。まさに大幅に法を逸脱したものでした。

  今申し上げたいのは、彼らの質問はイエスを殺す手掛かりを掴むためのものだったということです。こういうのを、為(ため)にする行為と言います。相手からよく話を聞いて、一から謙虚に取り調べて結論を下すのでなく、先ず結論ありきです。

  イエスはどうしてこのような時に悠然と落ち着いている事が出来たのでしょう。それは最後的な勝利を知っておられたからでしょう。既にイエス様は、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と弟子たちに語っておられました。ここでも、「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」 と答えておられます。

  最後的な最高の主権を持つ方を知っている事から来る自由であり、勇気であり、喜びであり、平和です。幾ら勇気があっても、それがカラ元気、カラ勇気ならメッキは剝がれますが、真の意味で自由であり喜びがあると、ユーモアさえ生まれます。明るささえ持つでしょう。

  イエスはまた、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」 とも言っておられました。死の向こう側に越えて行く復活。そこから来る力は死の力に対する勝利ですから、何ものにも優ります。

  イエスは雀を例にとって、「5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と語られ、「体を殺しても…、それ以上何もできない者どもを恐れるな。だれを恐れるべきか…、それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」と語られました。たとえ信仰者を打ち首にしても、彼の魂まで打ち落とせないという信仰です。

  イエスは、天の父を知っておられたから、腹をすかして襲いかからんとする獰猛な獣の様な者たちの真ん中にいつつ、最後の勝利に目を止め、天からの自由に生きて悠然と落ち着いておられたのでしょう。これらは地に由来するものではありません。

           (つづく)

                                          2016年4月24日


                                          板橋大山教会 上垣 勝




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