暴行を受けるキリスト


カダール君はソマリアの少年。村が襲われた時、14才の彼は集中砲火を浴びて足を撃たれ自分の足が切断されるのを見つめていた。その時貰ったのが最初のこの義足だった。彼は何百万にも上る難民の窮状を訴えて欲しいと言ってこの義足を差し出した。      ――表参道であったRIJの「難民の持ちもの展」で。
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                                                 暴行を受けるキリスト (上)
                                                 ルカ22章63―65節


                              (序)
  今日は礼拝後に定期教会総会があります。昨年1年間、私たちにお与え下った主の恵みを数えて感謝する時であり、同時に反省もし、新年度の幻と新しい決意の時として総会を持ちます。私たちには殆ど何も優れた力はありませんが、実に多くの恵みがキリストから授けられました。小さい教会に5人もの新しい兄弟姉妹が与えられたのもその一部です。ですから、私たちでなく、「ただキリストの恵みによって」、今ここにあるという感を深くしています。本当の意味で感謝の1年でした。

                              (1)
  さて、今日は短い聖書個所から福音を聞くことになっています。福音と申しましたが、今日の聖書の表題は「暴行を受ける」ですし、お話の題も「暴行を受けるキリスト」と致しました。暴行と福音とどんな関係があるのかとお感じになる方もあるでしょう。その辺のことをお話しできればいいと思います。

  まず63節に、「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした」とありました。この者たちは、イエスが逃げないように、また弟子たちが大祭司の官邸を襲撃して、イエスを奪わないように見張っていたのでしょう。

  これ迄の状況を申しますと、ペトロが大祭司の中庭で、3度イエスを知らないと否認するや、イエスが予言しておられたように鶏が鳴きました。すると捕縛されたままイエスが後ろを振り向いて、慈愛深い憐れみの目でペトロの姿を確認されました。その慈しみの目を感じ取ったペトロは、外に出て激しく泣いたのです。

  今日の個所はそれに続き、イエスを見張っていた下役たちが、イエスを侮辱したり殴ったりしたのです。下役たちはイエスの振り返るのを見て、ペトロが逃げた姿を見たのかも知れません。「お前の弟子の一人が今逃げよった。お前を見捨てて逃げよったぞ。」こう言って囃し立て、侮辱したのではないでしょうか。「勇敢にも中庭まで入って来て、大胆な奴と思ったが、お前が一番信頼していた奴まで、お前を置いて命からがら逃げよったぞ。」こう言ってゲラゲラと嘲ったに違いありません。

  こうしてペトロが逃げた後、イエスは嘲られ殴られたのです。マタイ福音書の並行記事を見ますと、彼らは「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った」となっています。

  下役たちがイエス・キリストを見下し、バカ扱いし、笑い者にしたのです。暴力だけでなく、笑い者にされた末に幾人もから殴られることの精神的打撃は甚大です。皆さんの中に本当の意味で侮辱されたことがある方があればイエスの心情がお分かりだと思います。被害者意識でではないですよ、本当の意味での侮辱です。

  暫らく前に多摩川の河川敷で仲間からリンチされた揚句、泳がされて溺死した青年の事件がありました。悔しかったでしょう。また近年、乳幼児が自宅で虐待され殺される事件が増加しています。死者に口無しですし、幼児はなお更です。この世に生まれて未だ何カ月か何年かで、人間仲間の恐ろしさだけを体験して去って逝きました。その時の恐ろしさと寂しさは如何ばかりであったでしょう。

  今、アフリカと中近東の各地でキリスト教徒への迫害が起こっています。迫害されている少数者の80%はキリスト教徒です。彼らは殺され、首を切られ、十字架に磔にされ、また誘拐され、棍棒で殴られ、拷問を受けています。キリスト教徒の町や村はうち捨てられ廃墟になっています。だが日本の新聞はそういうことを報道していません。

  悪は密室でなされるとは言え、最近は密室での犯行が目立っています。異質な人の目が届かない場所では、プライベートな事だけでなく企業や政治団体、色々な集団でもそれは起こります。ですから異質な人の目や意見は非常に貴重です。

  「見張りをしていた者」とありますが、旧約聖書預言者はナービーと言い、「見張る者」という意味です。しかしイエスを見張っていた者たちは、神に目を注いで世を見張るのでなく、イエス・キリストの挙動を見張って侮辱したのです。

  侮辱とは国語大辞典では、「見下して恥をかかせること」とあります。ただ、侮辱はそこに留まりません。侮辱することで自分が優位に立ち、圧倒的に優位にある自分を喜ばせるのです。悪をなすことで快感を味わうのです。善を為すのでなく、神に逆らうことによってまるで正義を貫いているかのように考えるのです。完全な倒錯です。

  彼らは、自分を光の下に置こうとせず闇の下に置こうとし、それがまるで正しい、光の行ないであるかのように思い違いするのです。彼らは愉快にイエスをバカにし、ここまで人を馬鹿に出来るのは、自分は何ものからも自由な大胆な人間だからだと自慢し、仲間たちの間で侮辱の競争をし合って楽しむのです。集団リンチに関わる人間達によく起こる倒錯した心理です。

         (つづく)

                                          2016年4月17日




                                          板橋大山教会 上垣 勝




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