心の渇きを紛らわさないで


           アインシュタインは子どものように率直です。凡人のような天才だったんでしょうか。


  
                                              心の渇きを紛らわさないで (下)
                                              詩編42編2-12節


                              (4)
  その中で自問自答します。「なぜうなだれるのか。私の魂よ、なぜ呻くのか。」同じ言葉がこの短い詩編に2度も出ているのは、それほど嘆き、呻きが痛切だからです。実際には何度も何度も、呻き続けたことを想像させます。

  だが今、そうした中で、彼は決然と自らに答えます。「神を待ち望め。私はなお告白しよう。『み顔こそ、私の救い』と。」この過重極まりない運命にも拘らず、その中で「なお」神の救いを告白しようと語るのです。

  この詩編は、悩みを抱え、魂に渇きを持ち、呻き求める人たちに、一つの指針を与えてくれるのではないでしょうか。

  どんなにあがいても不毛に見える環境の中で、くたびれて、投げ出しそうになる自分に、「神を待ち望め。私はなお告白しよう。『み顔こそ、私の救い』と」、自らを励ましているからです。

  「神を待ち望め」と言い聞かせるのです。嘆きの言葉を2度綴っていますが、それに劣らず、「神を待ち望め」という言葉を今度は逞しさをもって2度語ります。これは「神に望みを置け」とも訳せる言葉です。

  彼は信仰者ですが、彼には試練があります。信仰者には試練が来ない、災いも来ないというのは現実を知らない幼稚な信仰です。そのような信仰はこの世の逃避であり、騙(だま)しごとです。フィリピ書には、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあります。キリストが与えられる苦しみがあるのです。それを避けず、キリストの栄光が現されるための苦しみと受け取る時、それは恵みの時になると言うのでしょう。

  彼は脱出できない不条理な苦しみの中で、「神を待ち望め。神に望みを置け」と自分に言い聞かせるのです。

  すなわち、聖書は私たちに、あなたの今受けている現実の渇きが、未解決なままであることを受け入れよと語るのです。安易に、手の届く所にある代用品で満足せず、贋物で魂の渇きを紛らわすなと語るのです。

  エレミヤは、ユダ王国の罪を指摘しました。彼は、「生ける水の源を捨てて、水の溜めておけない、無用の水溜を掘ってはならない。そういうものに頼るな」と警告しました。

  底の抜けた水溜を作っても、すぐ水はなくなります。焼け石に水のような政策をいくら行なっても、根本的な解決になりません。首相が変わり、少しはましになればと期待しますが、エレミヤの言葉は、まるで今の日本の政治家にも私たち全体にも語っている気がします。

  いずれにせよ、今日の詩編は個人的な問題ですが、あなたの渇きを贋物で代用したり、ごまかしてはならないと語り、神のみが満たすことがおできになるものを、最後まで耐え忍んで待ち望んでいくこと。その生き方こそ、最も美しいものであり、清いものであり、真実なあり方であると語るのです。

  聖書の最後のページ、ヨハネの黙示録22章は、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と語っています。この最後究極的な方によって渇きを満たされるまで、私たちは渇き続けるべきではないでしょうか。そのような渇きを欠いてはならないのではないでしょうか。

  ハマーショルドはすぐれた国連事務総長でしたが、アフリカの紛争解決に精力的に関わる中で惜しくも命を落とした信仰者でした。彼は世界平和のために現実社会の中で奮闘しましたが、その精神の風貌は、パスカルに似ていると言われます。

  「内面の静寂を保つこと、喧騒の只中にあって」と語っています。また、「開かれたまま、穏やかなままでいること」とも言います。「雨の降りそそぎ、麦の芽生える、肥沃な暗闇に包まれた、しっとりした腐葉土のままでいること」と申します。更に、「白昼の不毛の光を浴びて、チリを巻き上げながら広場をドシドシ踏みしだいて行く人たちが、どれほど大勢いようとも」と書きました。

  メジャーな方に身を置かなければ生きれないような社会です。多数に同調しなければ、生き残れないのでしょうか。少数者の価値は本当にないのでしょうか。

  真理は多数決では決まりません。イエスは、「狭い門から入れ」と語って、安易な道、広い道はしばしば滅びに至る道であると言われます。現代人が目をつぶっている点が、ここにあるのではないでしょうか。

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  「私の魂よ。神を待ち望め。私はなお、彼をほめたたえる。」

  何と芯のある言葉でしょう。「私はなお」という言葉には、この人の状況の中で、万感の思いが籠っています。このような信仰は、私たちの歩みを前進させます。この信仰をもって生きる時には、再び高らかに心から歌える日が来るでしょう。いや、たとえその日が来なくても、試練の中でも、高く賛美の歌声をあげることが許されるでしょう。

  神の代用品、真理の代用品、慰めの代用品、アンチョコでごまかしてはならないのです。

  私たちの生活を方向付けている方向性は、どんなことがあっても神をほめ歌うことです。その道を取って離さない。神は私たちと共にあります。たとえ目には見えず、私たちが気づかなくても、神は私たちの近くにおられ、伴っておられるからです。

  コリント前書15章の言葉をもって終ります。「だから、愛する兄弟達よ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなた方の労苦は無駄になることはないと、あなたがたは知っているからです。」

         (完)

                                           2010年6月6日


                       板橋大山教会   上垣 勝

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