イエスは家族をどう扱ったか


         アインシュタインは物理学者であっただけでなく、思想家としても偉大だったと思います。

  
  
  
                                              エッ、家族を捨てるって? (上)
                                              マルコ10章29-30節


                              (序)
  こんな題を道路に掲げましたが、道を通る人たちはこの数日ご覧になって、どんなことを思われたかと思いました。

  「家族を捨てるなんて、ひどい題だ」と思いながら通り過ぎる方もあったでしょう。しかし、「自分は、もうとっくに捨てているよ」と、涼しい顔で看板を見る方もあったでしょうか。別の方は、「家族を捨てることが出来ればどんなに楽か」と思いながら、坂の上の教会を見上げる人もあったかも知れません。むろん、中には、家族から捨てられた人も通っていたでしょう。

  その他にも、病気の家族は捨てられないと思う方や、家族が病気になって、これまで以上に家族の結びつきが強くなって良かったという方もあったでしょう。

  いずれにせよ、この題は自分の家族との色んな関係を浮かびあがらせたかも知れないと思います。

                              (1)
  さて、イエスは今日の所で、「はっきり言っておく。私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は…」と言われました。

  私たちは、いや私は、イエスのため、福音のために何を捨てたでしょう。今日の箇所を読むと、こう問われている気がして、胸が締めつけられますし、皆さんの中にもそんな人があるでしょう。

  今日は段落全体をお読みいただきませんでしたが、この段落の最初には、富める青年の話があります。イエスは彼の質問に、「あなたに欠けているものが1つある。行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と語られたとあります。またそのやり取りを聞いていたペトロが、イエスに、「私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と語っています。

  話の流れからすれば、このイエスの言葉はなお更、「エッ、家族を捨てるって?」という強い戸惑いを起こさせることになるでしょう。

  ペトロやアンデレなど、ガリラヤの漁師がイエスから招かれた時、彼らは父親や仲間をそこに置いて従ったと書かれています。彼らは、全てを捨ててイエスに従ったのでしょう。また何よりも、イエスは十字架でご自分を捨てられました。

  信仰に入って間もなく、八木重吉の言葉が私の心を占めました。「自分がこの着物さえ脱いで、乞食のようになって、神の道に従わなくてもよいのか。考えの末は必ずここに来る。」この言葉は今も真実さをもって心に迫って来ます。

  イタリアのアッシジ聖フランシスコは20代半ばに、一切を捨て、着ている物まで父親に返して、ボロをまとってキリストに従いました。単にぼろを着て生活しただけでなく、社会から捨てられていたハンセン病の人たちの所に行って、世話をしながら生活しました。信仰の原点も、社会福祉の原点も同じく、愛によって働く信仰であると言っていいかも知れません。

  聖フランシスコのようにキリストのため、福音のために、全てを捨てて神と隣人のために尽くす人たちの信仰の強さ、愛の深さ、勇気、その本物の生き方に接すると尊敬を抱かざるを得ません。

  しかしそれと共に、そこまで徹底して生きなければキリスト者でなく、そこまで捨てなければ信仰者になれないのかとも思います。今日の箇所は伝道者に限っていうなら分かる。しかし一般の信者にまで適用されると困ると、抵抗したくなるわけです。まさに、今日の題のように「エッ、家族を捨てるって?」という思いになります。

                              (2)
  マタイ福音書とマルコ福音書を見ると、イエスは大工の息子で、イエス自身も大工だったと聖書は書いています。大工の父が亡くなると、恐らくまだ10代の半ばだったでしょうが、長男の彼は8人ほどの一家の大黒柱になって、まだ幼かった弟や妹たちと母とを養ったと思われます。しかし、年齢およそ30歳になり、弟たちが一家を支えることができる目途が立ったからでしょう。意を決して、ナザレを出て神の国の宣教を始められました。そのことはルカ福音書に出てきます。

  この事実は十分考えるに価することだと思います。

  ここには、今述べましたイエスが家族を捨てたと見られる決然たる行為があります。ただ、ほぼ30歳になって伝道を始められたのは、弟たちが成人して、母や家族を支える経済力を持つのを見定めてからであって、家族を路頭に迷わせるような捨て方、自己中心的とも身勝手ともいえる捨て方は、イエスはなさったのではないということです。それ以前から宣教への促しは強く、今か今かと心ははやる思いはあったでしょう。だが時が熟すのをじっと待って忍ばれました。この事実はしっかり踏まえなければならないと思います。

  だが一度踏み出すと、後ろを振り返らず、神の福音を宣べ伝えることに専念し、生涯を神の国のために捧げ、福音のためにご自分を捨てて進まれたのは確かです。最近はブレルとかブレないとかよく言われますが、イエスは一貫してブレていません。

  しかしその場面においても、人の子イエスですから自分の道を進むことに100%全く心の疼きがなかったかというと嘘になるでしょう。「鋤を取って、後ろを振り返る者は神の国にふさわしくない」とある青年におっしゃいましたが、イエスはその青年に語る以上に、ご自分に「後ろを振り返ってはならない」と言い聞かせておられたのではないでしょうか。むろんそういう消極的なものが彼の心を占めていたのでなく、神のみ声を聞くゆえに、前進されたのです。

  ただ心の疼きがあったればこそ、十字架の場面で、老いた母をご覧になって、そばにいる愛弟子を指して「これはあなたの子です」と語り、愛弟子にも「これはあなたの母です」と言って、母マリアを託されたのでしょう。彼は「イエスの母を自分の家に引き取った」とあります。

  イエスは母マリアへの深い愛、母親への感謝を終生持っておられたことがここから推測できます。

  イエスがある家で、取り囲む大勢の人たちに福音を説いておられた時、母と弟たちが会いに来たことがありました。イエスは伝言を聞いて、「私の母、また兄弟とは誰か」と問われ、「ここに私の母また兄弟がいる。神のみ心を行なう人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。

  このように使命に生きるイエスは家族を捨てたような所があります。だが、愛を説き、愛に生き、孤独な人や貧しい人の支えとなられたイエスが、どうして家族を路頭に迷わすような形で冷たく捨てることがあるでしょうか。

        (つづく)

                                              2010年6月13日


                            板橋大山教会   上垣 勝

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