エレミヤという男 (下)


  
                                             
                                           エレミヤ書1章1-13節
      
  b) 客観的にエレミヤは傑出した男でしたが、先ほど触れたように、自分はその任に堪えない器だと辞退しました。私は若者で、王や民衆に向かって語れるような人間ではありません。そういう強さも説得力も、正当性も持っていませんと考えたのですが、神様は、そういう事は取るに足りない、預言者の使命に何ら影響はないと言われたのです。自分の力や能力に焦点を当てるのは、神に召命を受けた人間にふさわしくないというのです。

  これは常識では考えられないことですが、神は確かに弱さを持った者を、返って用いていかれる場合があります。弱さの故にそれが武器になる場合も社会にはあります。

  彼はこうして預言者の活動をします。しかし、20章に出てきますが、現実社会の姿をありのままに見ると、エルサレムに対する「嘆きになり」、裁きの言葉が生まれ、罪の告発になり、この国にあるのは、「『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられ」ないのがエレミヤでした。

  だが、そんなことを語る自分は、街の人々から、「一日中、恥とそしりを受けねばなりません」(20章8節)。それが預言者として忠実であろうとした時に起った事です。そこに預言者の過酷な務めがあります。ですから、「なぜ、私は母の胎から出て労苦と嘆きに会い、生涯を恥の中に終らねばならないのか」(18節)と神に訴えます。

  それだけでなく、次に神に向かって、「主よ、あなたが私を惑わし、私は惑わされて、あなたに捕えられました。…私は一日中笑い者にされ、人は皆、私を嘲ります」(20章7節)と叫びます。殆ど神に食ってかかっています。

  ところが彼は、「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました」と独白せざるを得ません。主の言葉を内側に閉じ込めておけず、内側から言葉が火のように噴出し、ほとばしり出るのを留める事が出来ないと言うのです。

  今日、誰かの意志のままに動かされるのは危険です。社会には、教祖や神を自称する人たちが、獲物を狙って待ち構えています。そういう人たちは、信者の批判力を奪い、妄信的な信仰、狂信的な信仰を求めます。中に入ればそれがどんなに異常か分からなくなります。そこには、人の魂を支配しようとする異常な、不遜な人間の支配欲が必ず働いています。

  エレミヤは少しも熱狂的でも、狂信的な男でもありません。彼は、神に対しても、承服できないことは承服できないと、率直に反論しました。彼は、「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、私はあなたと争い、裁きについて論じたい」と神に面と向かって抗(あらが)うのです。彼は、落胆すればそれをすっかり語りましたし、人にも隠しませんでした。

  彼は神にこう言います。「ああ、私は災いだ。わが母よ、どうして私を産んだのか。国中で私は争いの絶えぬ男とされている。…誰もが私を呪う」(15章10節)。「なぜ、私の痛みはやむことなく、私の傷は重くて、癒えないのですか。あなたは私を裏切り、当てにならない流れのようになられました」(18節)。「私があなたのゆえに、辱めに耐えているのを知ってください。」

  預言者は純粋培養ではありません。スラッと何でも神の思いのままに従っているのではありません。不安も、恐れも、たじろぎもあります。キリスト者もそうではないでしょうか。

  彼は、神は自分の労苦や不満を十分聞いて下さっていないと訴えます。私たちも神に突っかかり、その様な訴えを神にしていいのではないでしょうか。祈りの中で、私はそこまで神と取っ組んでいるでしょうか。

  c) だがエレミヤは自分に躓き、神に突っかかりながら、最後に神の意志を理解していきます。

  彼は15章19節で、神からこう言われます。「もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、私はあなたを、私の口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそ、あなたのもとに帰るのだ。」

  歴史の中に働かれる神は、人を選んで使命を行なわせられます。時には、辛(つら)い状況の中で、気の滅入りそうな使命を果たさなければならないことがあるかも知れません。しかし、そこにもキリストはおられ、神は見張ってくださっています。選んだ人を決して捨てられません。

  エレミヤは、神に突っかかり、自分自身にも躓きながら、やがて主なる神は無常な、独裁的な方でなく、最も厳しい試練の中にあって、永遠の愛をもって愛し続けてくださる方であり、尽きない優しさでご自分へと引き寄せて下さるお方であることを知るのです。

  31章でエレミヤは、「遠くから、主は私に現われた。私は、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」という言葉を聞きます。また、「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる」とあります。これらはイスラエルに対する神の言葉ですが、エレミヤに向けての言葉でもあります。

  d) 先ほど申しましたが、エレミヤは、神が自分を惑わされたかのように感じていました。彼は、自分の上に何が起っているのか知りません。というのは、神はエレミヤの弱く、傷つきやすい所で彼に出会うために、そこへ連れて行かれたからです。そして、その最も弱い部分、エレミヤの最も弱い傷口で彼に出会われたのです。

  私たちは傷を持っていてもいいのです。神はそこで出会われます。モーセは破れ口に立って、主に出会ったとありますが、神様は私たちを愛するゆえに、私たちの破れ口、最も弱い、弱音が出てくる場所、本音も出てくる所、そこから神は恵みをもって入って来て下さるのです。だから、神の恵みは最も深い魂の底にまで届いて来るのです。そこで神に出会う人は誠に強くされ、また人の弱さも分かる、人を励ます人になるでしょう。

  エレミヤは、いわば社会活動家です。祭司の子ですが預言者です。国家や社会に対して語ります。しかし、社会活動家のこの男を支え、彼を突き動かしているのは、破れ口から入って来て、人間の存在の極みで出会って下さった主なる神です。そういう内面的な、内省的な、霊的な出来事が偉大な旧約の社会活動家の行動を支えたのです。そういう人間的厚みを持ってこそ、本当に人のことも、社会に生きる人々のことも思いやれる活動が出来るでしょう。

                                 (3)
  エレミヤという男は、最終的に無欲な男でした。強い自我を持ち、強靭な意志を持ちますが、無欲な男でした。自分の召命から何か利益を得ようとは思いませんでした。自分は十分に行なったとも言いません。自分をもっと重く扱ってくれとも言いません。

  彼は数度にわたって投獄されました。深い空井戸に吊りおろされ、その深い泥の中で殺される所でした。しかし、エルサレム崩壊後、彼は自分を救い出すことも、名誉回復を図ることもできたでしょう。だが、そうしませんでした。むしろ、彼はエルサレムの人たちに連帯して、彼らと運命を共にしてエジプトに行き、そこで最後を迎えました。エレミヤは命を、取り戻そうともしませんでした。

  イエスは、「義のために迫害されている人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われました。エレミヤは、人々に受け入れられなかったでしょうが、神に受け入れられ、キリストに受け入れられたのでないでしょうか。また、彼の真実な生き方は真実な方イエス・キリストを指し示したのではないでしょうか。

            (完)

                                       板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、フランス国鉄SNCF)ボーヌ駅。)