神の働きに与かるとは (上)


    
    
                                          使徒言行録1章6-8節

                                 (1)
  今日は、約10年ぶりに来られたAさんとご一緒に礼拝を守れることを大変うれしく、喜んでいます。

  さて、先ほどお読みくださった直ぐ前の所に、復活のイエスは、40日にわたって弟子たちに現われて神の国について話されたとあります。また弟子たちと食事をされ、彼らに、「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は間もなく聖霊によって洗礼を授けられるからである」と告げられたとあります。そして今日の所に入って、使徒たちは、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」、と問ったとありました。

  聖霊による洗礼を約束された弟子たちは、今こそ「聖霊が降って」、神がその民イスラエルに対して抱いておられる偉大な計画を実現して下さると思ったのでしょうか。

  かつて弟子たちの中に、イエスが権威を持ってイスラエルを再建される時、一人を右の座に、もう一人を左の座に着かせて下さいと願った兄弟たちがいました。イエスはそういうイスラエルの再建をおっしゃってはいませんが、弟子たちは、聖霊が降る時というのを「神の力が降る時」と理解して、ローマからの解放とイスラエルの再建がイエスによってなされる時と考えたのでしょう。

  私たちはいつも、確かなことを前もって知りたいです。予め知って、確かな生活をしたいという欲望があります。いつ大地震が来るか分かれば、どんなにいいでしょうね。その前に逃げたいと思います。今、金融危機が一段と深刻化しています。株や証券を持っている人は、これからどうなるのか、紙くず同然にならないか、あるいはG7が終って、今週からすぐ回復することになるのか、ぜひ知りたいでしょう。中には、今が底値だから株の買い時だと、これからウナギのぼりに上がって、大もうけできるという人もあるようです。だが一寸先は闇です。明日はどうなるか…。人間は誰しも前もって知りたいものです。

  そういう弟子達にイエスは、「父がご自分の権威を持ってお定めになった時や時期は、あなた方の知る所ではない」と答えられました。この答えは、弟子たちにいささか失望を与えたでしょう。その様な知識は、父だけが知っておられるのであって、あなた方には委ねられてはいない、ときっぱり言われたのです。

                                 (2)
  しかし、そのことは、神が歴史の歩みの中で何をなさり、何を望んでおられるかを人間に語ったり、分かち合おうとされないということではありません。今日のイエスの言葉を味わうと、イエスは非常に興味深いことを示唆しておられます。

  イエスは、「時や時期は、あなた方の知るところではない」とおっしゃり、続いて、「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、私の証人となる」とおっしゃったのです。

  これは、こう解釈できないでしょうか。少し小難しくなりますが、イエスは、時や時期すなわち神の意図は、「外から」知ることは出来ないとおっしゃっているのです。それができるということは、人間が神になることであり、神にならなければ、そんなことは人間が出来る分けがありません。

  人間は時間の中に存在しています。ですから時間の中で起る事柄から距離をとって見る事は出来ないのです。もし突き放して外から見ようとするなら、生存をやめて、向こうの世界からこちらを見なければなりません。そんなことをすれば二度とこっちに戻って来れませんよ。宇宙飛行士になって地球から飛び出しても、時間の外に出ることはできません。

                                 (3)
  にも拘らず、イエス様は、根本的に彼らの質問に対して、非常に積極的な答えを与えられたのです。一言で言えば、それは、この世界の中、時間の中で神の創造のみ業に参画することができるし、神の創造のプロセスに加わることができるということです。

  これが8節の、「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、…地の果てに至るまで、私の証人となる」とおっしゃった言葉に込められた意味です。

  あなた方は聖霊の力を受けるだろう。すると、私の復活の証人となって、世界中に、地の果てに至るまで遣わされるだろう。イエスが、ガリラヤ中を廻って宣教し、悪霊を追い出されたように、あなた方もイエスの業を継続するようになるだろう。

  神の愛のみ心を知らないで、神の意志を知ろうとすることは至難の業です。しかし、神のみ心を知って、それに押し出されて地上でそれを行なって行く者たちは、あちこち思わぬところに働いている神の自由な働きに出会い、不思議な奇跡的な働きにも出会います。そして、キリストの福音はまさに良い訪れである事を発見するだろうということです。

  ご存知のように、アフリカなどには、乾季に大地が干上がって全ての生物が死に絶えたようになる所があるそうです。しかし、そういう所にも雨季がやってきて、水が僅かづつですが浸みわたって行くと、死んだようになっていた大地が青々と命を吹き返します。私たちは、世界というこの渇いた大地に水のごとく遣わされるのです。そこを潤すため、キリストの平和を来たらすため、喜びがそこに生まれるためです。

  例えば社会の片隅で、学校の先生が、クラスで次代を担う青少年に関わって、色々な困難や重荷を背負った子ども達に希望を与えたり、生き方を支援していく。まだ世界を十分知らない彼らにどう言葉をかけ、どんなアドバイスを語っていくかを考え、試行錯誤しながらそれを行なっていく。また子どもたちの人間の関わり方を教え、育てて行く。その様にして、躓いたり、悩んだりしている子どもの心が、水が浸み込んで行くように潤されていき、また成長していきます。

  「地の果て」は、遠くにもありますし、近くにもあります。家族との関係が地の果ての関係になっている人もあるでしょう。子どもたちの教育の現場が、大人から子どもの心は遠くにあって、見え難くて、地の果てである場合もあります。

  ノーベル平和賞が、フィンランドアハティサーリという人が受賞することになったそうです。G7のことがあって、ノーベル平和賞の報道が片隅に追いやられました。今日は、新聞やテレビで紹介されないことを申しますと、

       (つづく)

              2008年10月12日

                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、フォントネー修道院近くの田舎町モンバールの旧市街。)