エレミヤという男 (上)


     
     
                                          エレミヤ書1章1-13節

                                 (1)
  この頃は、散歩に出ますとどこからか金木犀の香りが漂ってきます。路地に入ると、民家に沿って並べられている植木鉢や小さな花壇にホトトギスの花や、色んな色の小菊が咲いています。春も花の種類は多いですが、やがて一年の終わりを迎える今、多くの花たちは、この時とばかりに花をつけて咲き匂っています。

  聖書は66巻ありますが、それぞれ特色ある書物です。今日のエレミヤ書はややトゲがあります。枳殻(からたち)のトゲも痛いですが、エレミヤ書のトゲのある所が、この書の特色ですし、エレミヤ書を他に追随をゆるさない書物にしている所です。単に裁きのトゲではありません。愛のトゲです。

  きょうはエレミヤという男についてご一緒に学ぼうとしていますが、先ず、もし私たちがイエスの生まれる600年前に、エルサレムの通りでエレミヤという男に出会ったら、どういう印象を持つかということです。

  彼は、1節にあるようにエルサレムの北東4キロ程にあるアナトト村の祭司ヒルキアの子であったこと、青年時代に預言者の召命を受けて40年間、60歳になっても預言者活動をしていたということは分かっていますが、その風貌については殆ど知られません。彼の語る言葉は深刻で、悩ましく、王や支配者、また富める者に対する言葉はことに痛烈で、数多くの災いや不幸の言葉で満ちています。

  さて、エレミヤ書のあちこちからしばらくご紹介しますと、彼は、「恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっている」(5章30節)と語ります。「預言者は偽りの預言をし、祭司はその手に富をかき集め、私の民はそれを喜んでいる」(31節)とも申します。また、「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼって」(6章13節)いると糾弾もしています。また、「泉が湧くように、彼女の悪はわき出る。不法と暴力の叫びが聞こえてくる」(7節)、「よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、一人でもいるか、正義を行い、真実を求めるものが」(5章1節)と訴えます。今の日本にもかなり当てはまる所もありそうです。

  また、「おとめがその身を飾るものを、花嫁が晴れ着の帯を忘れるだろうか。しかし、私の民は私を忘れ、数え切れない月日が過ぎた」(2章13節)と彼らの信仰を問題にしています。また、3、4章では、「背信の子らよ、立ち返れ」と幾度も繰り返してエルサレムの民に呼びかけて悔い改めを求めています。

  また、人々の現実の姿を見て、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。」(17章9節)、「ユダの罪は、心の板に、祭壇の角に、鉄のペンで書き付けられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれ」(1節)と告げます。その罪と病は、硬い石にたがねで刻まれたように決して消えることがないというのです。

  このように彼は王や富める者や利をむさぼる者に対して火を吐くような厳しい言葉を連発するのです。まさに鋭いトゲです。

  ところがエレミヤに更に近づき、彼をよく観察してみると、彼は率直に語る男ですが、感情は豊かで、時代の動きを遠くまで見通す力を持つ男です。意見をはっきり述べると共に、心は謙虚で、優しく、神の愛を語って、自ら神の愛に感動して心動かされるといった人物です。私たち人間は、遠くから見るのと近くで見るのとで、殆ど違わない人もいますが、まるっきり違う人もありますね。

  そしてある日、私たちは、彼が肩に牛のくびきの木をかついで街の中を歩いているのを見て、大きなショックを受けるかも知れません。ムチ打ちの人も首にはめていますが、それよりもっと重いくびきを4年間にわたって肩から外さず、寝起きして暮らしているのを知れば、更に大きな驚きを与えられるでしょう。罪と悪に満ちたユダの国がやがてバビロニア帝国によって滅ぼされ、奴隷生活というくびきを負わなければならないことの象徴として、預言として彼はこういう生活をします。

                                 (2)
  こういうエレミヤという男をエルサレムの路上で見かけたら、私たちはきっと、この傑出した男はどういう動機、どういうモチベーションでこういう事をするのかと、きっと尋ねることでしょう。

  しかも、くびきを担いながら心は柔軟であり、体は頑健でへたり込みもせず、普通の人と同じ日常生活をしているのです。この問いについて、エレミヤ書から幾つかのことを聞くことができます。

  a) エレミヤが預言者として神様から召されたその召命は、彼の人間的な要素に少しも由来するものでないということです。

  彼は先ほどお読み頂きました1章4節で、「主の言葉が私に臨んだ」と言っています。神の主権的な言葉が、絶対的に把握する力をもって、至上命令のように彼の上に臨んだのです。

  5節では、神が、「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、あなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と言われたとあります。彼は神が立てられたのであって、自分で預言者になったのではありません。

  6節では、「私は語る言葉を知りません。若者に過ぎませんから」と辞退しますが、「若者に過ぎないと言ってはならない」と叱責されます。それだけでなく、「私があなたを、誰の所へ遣わそうとも、行って、私が命じることをすべて語れ」と命じられます。神が「すべて」というのですから、少しも割引せず、水増しせず、つけ加えもせず、遣わされる所で全てを語り尽くすという命令を受けたということです。

  更に9節で、「私はあなたの口に、私の言葉を授ける」とあります。神が言葉を授けるのですから、神の意志を正しく伝える器にならねばならない。神の意志がよく通る、良い通路になるのが預言者の最大の使命です。

  エレミヤは生涯、いつもこの点に立ち返り、老人になってもそれを辞めなかったのです。母の胎にある時から選び分たれ、預言者になるために生まれて来たような男です。

  社会には色んな人間が必要です。クリスチャンも一色ではありませんし、一色になる必要もありません。ただキリストを仰ぐという一点では同じでも、信仰の表現には幅もあり、色合いも違います。それでこそ神様の素晴らしさが輝きますし、私たちも喜びをもって行動できます。ただ、彼の場合は預言者の使命を力いっぱい生きました。

               (つづく)

     2008年10月5日
 
                                       板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、ブルゴーニュ町ボーヌのカルノー広場。)