人類の始めを越えて (下)


    
        
                                             ルカ24章50-53節
    
                                 (3)
  さて、イエスの祝福を受けた弟子たちは、天に上げられる「イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて神をほめたたえていた」とありました。

  弟子たちはこの時、初めて地に頭をつけて、復活のイエスが天に上げられるのを伏し拝みました。恐れからでなく、「大喜びで」伏し拝んだとあります。24章を最初から読みますと、3日前のイエスの死によって、弟子たちは途方に暮れ、暗い顔をし、絶望の中にありました。

  だが今、暗く翳(かげ)っていた顔が大きく反転して、イエスのご降誕の時に天使が告げた「大きな喜び」が与えられたのです。そのためでしょう、危険であるはずの「神殿の境内に」さえ出かけ、神をほめたたえていたというのですから、イエスの祝福にはそういう権威があったのでしょう。

  先ずここで教えられるのは、今申しましたようにこれ迄と違って、この時から初めて彼らは復活のキリストを「伏し拝んだ」ことです。プロテスタントの私たちは、殆どイエスを「伏し拝む」ということを致しません。皆さんの中には、この会堂にお入りになる時、十字架に向かってお辞儀される方はあるでしょうか。私もしたことがありません。新幹線の売り子さんや車掌さんは、車輌に入って来る時にお辞儀しますがね。お客様が神様でしょうか。見てましたら、パチンコの店員が店から出るときに店の中にお辞儀をしていました。えらい時代です。冗談はそれまでにして、カトリックの人や聖公会の人たちは礼拝堂に入る時に、軽く礼をします。カトリックのある修道会では床に額をつけてイエス様を伏し拝みます。実際に礼をしなくても、地に頭をつけて伏し拝むというような気持ち、そのような信仰は大事なのではないかとここを読んで思いました。頭で信じるだけでなく、頭を地につけて伏し拝むように導かれる必要があるかも知れません。

  少し前にカール・バルトという神学者が、信仰を3つの言葉で言い表したことをご紹介しました。「信仰とは信頼を意味する」、「信仰とは認識を意味する」、「信仰とは告白を意味する」の3つです。彼はそれぞれに長い解説を施していますが、それを全部ご紹介できる時間はありませんが、「信仰とは信頼を意味する」と書いて、バルトは、「信仰は一つの究極的な決断である。…他の見解と置き換えることの出来ないものである」と述べ、「一時的に信じる人は、信仰とは何かを知らない。信仰は一つの究極的な関係を意味する。…一度信じる人は、決定的に信じるのである。一度信じる人は『消えざる印章』のようなものを持つ…。信じる人は、自分が支えられているという事実に頼むことができる」と語っています。

  ベタニアで、両手を挙げてイエスから祝福された弟子たちは、「祝福の消えざる印章」のようなものを持ったのですし、私たちもイエスの言葉を聞く時、その様な祝福を頂き、希望の徴を授けられるのです。

  地に頭をつけて「伏し拝んだ」と言うことについて、ある人は面白いことを書いています。彼らはこの時、死から甦ったイエスを拝むことによって、「人間の最も遠い始まり、その源にまで目を向けて祈ったのです。それは同時に、自分の存在の源である方に献身しようとする一つの徴でした。」大変味のある言葉です。

  「人間の最も遠い始まり」とは、聖書によればアダムです。また、「自分の存在の源である方」とはアダムを造った天地創造の神、父なる神です。その方への献身の徴として、イエスを伏し拝んだと言うのです。

  ルカ福音書3章のイエス系図は、マタイの系図と書き方が違います。マタイはアダムから始まりイエスに至る系図ですが、ルカはイエスから始まって、系図を遡ってアダムに至り、アダムを越えて神に至っています。ですから、復活のイエスを伏し拝んだ彼らは、イエスを通って人類の始めに遡り、その始めを越えて神を伏し拝んだと言えるでしょう。

  私たちが今ここにあるのは、色んなことがあるにせよ、父母がおり先祖があったからです。その意味では両親や先祖を敬うのはキリスト教では大事なことです。しかし、先祖も越え、人類の始祖も越えて神を伏し拝むこと、その方を知って、その方に究極的な信頼を置く所まで行くことは更に素晴らしいことです。また、その方への信頼なしには、先祖を敬うことも真の喜ばしさを持たないのではないでしょうか。

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  最後に、テゼから送られて来た手紙に、ポーランドの女性が書いた証がありましたのでご紹介します。彼女は結婚して15年、3人の子どものお母さんのようです。この人は、静かな平和な心をもって、色んなことを決断していく大事さを述べています。

  というのは、私たちは疲れたり、厭になったり、イライラしたり、人と衝突したり、欲求不満に襲われたり、また人生の分岐点で様々な誘惑に襲われたりします。そこで心の穏やかさ、平和をもって決断していくことが非常に大事だと言うのです。イライラの中で選択するのでなく、神の前に静かに沈黙して、正しい選択をしたという確信を持つとき、それがまた平和な心を与えてくれるからです。

  また、一つの決断をしたら、左右とか後ろを振り返らないこと。イエスが「鋤に手をかけてから、後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた通りです。また、比較しない、「もしこうだったら、こうなっていたのに」と仮定のことを言って嘆かないこと。それは、た易くはないが、特に困難な時こそそういう心の規律を自分に課すことが必要だと言うのです。中々しっかりした女性だと思います。

  この方がある時、子どもを取るか仕事を取るかの選択に立たされました。彼女は子どもを選んだのですが、その選択は決して生やさしいものではありませんでした。

  というのは、現代社会はどの国でも、日本もそうですが、多くの女性が職業を持ち、専門職を持っている人もあります。銀行の預金口座によって人間の価値が決められたり、出世や成功の度合いによって値打ちが決められるからです。そんなことは決してないのですが、人はそう見るわけです。同僚との競争心、同窓生との競争心、キャリアの女性たちへの競争心もあります。

  長くなりましたが、そんなことを書いた後、「だが、理想的な人間はどこにもいません。上がったり下がったり、みんな浮き沈みをしています。ある時は疑い、ある時は誘惑の中にあり、ある時は砂漠の中に道を失い、ある時は暗闇の中にある。しかし重要なことは、迎える一日一日を新しい始まりの日として迎えることです。しばしば、同じ一日の中で何回も新しく始めなければならないことがあります。私たちは誰も理想的な者ではないからです。一日の途中で、主に耳を傾けるごく短い祈りの時間を持つ。そのこと以上に、私を助けるものはありません。」

  私はこの方の思いと全く同じです。私たちは人間や環境を理想化してはならないと思います。テレビなどは人間をかなり理想化しています。舞台裏は決してそんなものではありません。オーケストラの演奏を聴いて素晴らしいなあと思います。でもある時、舞台裏に入る用事があって、何だこの人たちは普通の人間じゃあないかって思いました。私たちは、体も時々壊れますし、心もくたびれます。自分もそうですし、他の人もそうです。その現実から出発する時、弱さへの思いやりも、労(いた)わりも、愛も生まれます。

  まじめに一生懸命生きようとすればするほど、心が渇くのが私たちです。人間のしがらみを越え、人類の始めを越え、神に耳を傾けることの必要を感じる時代に私たちは生きています。その様な渇きを持つのは、正常なことです。

  しかし、私たちには「手を挙げて祝福」して下さる復活のイエスがおられます。心が渇く時、この方の前に、ほんの一時でも出て、また仕事に、家事に、この世の業に向かおうではありませんか。人生はあせる必要も、あわてる必要もありません。一休み、一休み、イエスの祝福を深呼吸して進んでいきましょう。

           (完)

   2008年9月28日
    
                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ブルゴーニュ・ワインの町ボーヌの街角。)