挫折が始まりでした


                       ノートル・ダム大聖堂を覚えて 7      右端クリックで拡大





                                                   背後の祈り (下)
                                                   ルカ6章12‐16節



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  さて12人はどんな男たちでしょう。少し詳しく辿りますと、先ず、「イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ」。彼らはガリラヤ湖の漁師の兄弟で、父と舟を残してイエスに従った男たちです。決断力のある男たちです。

  ペトロとは岩や石を指すギリシャ語ですが、兄のシモンに「ペトロ、岩、石」というニックネームを付けられたのです。彼は岩のように固い信念の男、イエスをまことの主とすることにおいて人後に落ちぬ、信念の人になると見抜かれたのかも知れません。だが少しは石頭の所もあったかも知れません。兄に対し弟のアンデレは、大人しい人物です。兄が、例えば猛々しい武男君だとすれば、弟は静男君ともいえる人物です。だが兄と違って、一般的に弟は兄が叱られるのを見て育ちますから、要領のいい男だったかも知れません。多少夢見る所があり、ひ弱な消極的発言もしています。もしかすると草食系男子かも知れません。

  次の、「ヤコブヨハネ」も兄弟で、ガリラヤの漁師です。彼らは母親の血を引いて、競争意識の強い、抜け目のない兄弟だったようです。しかし抜け目のなさとは逆の事ですが、彼らはボアネルゲ・雷の子と呼ばれるほど、激しやすく切れやすい兄弟だったのです。そんな2人でありながら、いつかはイエス左大臣、右大臣になる機会を窺っているような人物でした。

  この4人だけを取っても、今日、どこかの事務所の一角で働く、4人の男たちの難しい人間関係を想像できるでしょう。

  フィリポも先の4人と同郷、ベトサイダ出身ですが、その他の事は詳細不明です。バルトロマイヤコブの子ユダ。彼らはフィリポ以上に更に詳細が分かりません。

  次のマタイは徴税人でした。計算が抜群で、他の者より経済観念が発達していたでしょう。冷静な男ですが、強制取り立てという暴力的な仕事の世界も知っている男です。そういう徴税人の仲間を多く持つ男で、その種の仲間に信頼され、先が読める人物だったと思われます。ただ彼がイエスの呼びかけに惹かれて、その仕事を即座にやめています。

  トマスは、やがて復活のイエスに出会っても、あなたの手の釘跡に触れ、わき腹の槍跡を確認しなければ、私は信じないと語るほど、懐疑的な人物として知られています。

  「熱心党と呼ばれたシモン。」熱心党はゼロテ党と呼ばれ、非常に愛国的な行動派のユダヤ人で、いつも暗殺のために短剣を忍ばせる武闘派。ローマ帝国との武闘を辞さない革命家だったかも知れません。

  そして最後に、「後に裏切り者となったイスカリオテのユダ」。12使徒の中には、裏切り者まで含まれていました。ただ「最後に」裏切り者になったのであって、この時はまだ決して裏切りを行なう人ではなかったでしょう。むろんイエスは彼も祈りぬいた末に、使命を託せるものとして、信頼してお選びになった筈です。

  いずれにせよ、12使徒とか12弟子とひとことで言っても、決して一つにまとめ切れない男たちです。大人しい者もいますが、荒くれ者もいますし、非常に冷静沈着な冷めた男もいます。かと思うと急に雷を落す雷の子たちもいます。どこの馬の骨ともわからぬ者もいますし、大物風の者も小者もいます。大人もいますが子どもっぽい人も加わっています。右から左まで、様々です。

  12使徒は教会の原型と申しましたが、現実の教会も決して一つにまとめ切れない人の群れです。だから面白いし、苦労だし、ダイナミックに教会は歩んでいくのです。全くの一枚岩だと画一的でファッション・モデルの顔のように面白くありません。

  ただ12人に共通なのは、この時はまだそうではないですが、やがて全員がイエスを見捨てて逃げた事でしょう。イエスの十字架の一番大事な時に逃げ、暫く姿をくらまし、やがて集まって肩を寄せ合い、息を凝らして潜んでいましたが、復活のイエスに出会って、やがて見違えるほど変えられて行きはしますが、12人は皆、同様に脛(すね)に傷もつ男たちです。しかも拭い切れない傷です。皆、やましさと弱さをひっさげて生きる、罪人の頭(かしら)ばかりです。

  だがこの挫折こそが、彼ら12使徒の本当の始まりになります。イエスから託された福音を、世界に持ち運ぶ人達になったのは、この挫折の経験を経、それを乗り越えた所からです。しかも神の一方的な憐れみによって乗り越えた所からです。神の恵みの選びがあったからです。

  イエスが夜を徹して祈られた末に彼らをお選びになったのは、こういう罪人の頭(かしら)たちの恵みの主であろうとされたからでしょう。そして罪人の頭たちの恵みの主であることを恥じられなかったのです。

  そもそもイエスは神から遣わされて、罪のない世に来られたのでなく、罪の溢れる世に来られたのです。ですから、あなたは罪人だから駄目。あなたはどうだから、こうだから人間失格、ダメダメ……。そんなことはあり得ないのです。罪ある人たちを愛して神の子にしようとしてこの世に来られ、何とかして彼らを神に連れ戻したいと言うので十字架について血を流されたのです。

  いずれにせよ、これら12人も、私たちも、優れた立派な、無傷の、完全な者だから選ばれたのではないのは確かです。ただ神の国のために、私たち不完全な者も、へばりがちな者も、必要とされて恵みによってお選び下さったのです。

  ですから、結論的に言える事は、この12人が生涯証ししたのは、自分の背後に、罪さえお赦し下さるイエス様の夜を徹した鋼鉄のような祈り、しかし折れそうな祈りでなく、愛の祈りであり、選びの祈りであることです。キリストの命は価なき者にもふんだんに注がれるという証だったに違いありません。

  つづめて言えば、使徒たちがイエスから託された使命とは、罪人をかくまで深く愛し、お赦し下さるお方が来られた。このお方の下で、私たちの人生は新しく始まるのだ。キリストの命が、信じる者一人一人に注がれるのだ。そしてこの世界も、人類も、あなたの人生も新しい夜明けを迎えているのだという事であったでしょう。どんなにつらい事があっても、最後まであなたを背負って行こうと主が言って下さることです。

  弟子たちは、これが弟子であるという画一的なユニフォームを持ちません。ただ心を込めてイエス様のために、自分にできるだけの事をする人であることだけです。むろん、言葉だけでなく、真実を込めて、転んでもまた立ち上がって、自分が置かれている所で、イエス様のため、神の栄光のために生きようとする人たちだと言っていいでしょう。生涯続く、背後からの選びの祈りがあるからです。


        (完)


                                           2019年5月12日




                                           板橋大山教会  上垣勝



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