さっきはごめん


                    ノートルダム大聖堂を覚えて2 カインとアベル    右端クリックで拡大
                                  ・



                                                  天使のような顔 (2)
                                                  使徒言行録6章8‐15節



                                 (1)
  さて今度は使徒言行録6章ですが、ペンテコステの後、エルサレムに誕生した初代の教会はユダヤ教当局と議会による逮捕や投獄がありましたが、徐々に民衆に受け入れられて、ヘブライ語を話す地元のユダヤ人だけでなく、ギリシャ語を話すユダヤ人たちの中に広まりました。

  当時は、原始共産社会のように持ち物を共有して、一つの大きな家族のようになっていましたので、教会は彼らの給食活動を始めました。そうした中、地元のユダヤ人の中には極めて貧しい人が多く、ギリシャ語を話す比較的裕福な人たちに対する苦情が出始めたのです。原始共産社会の持ち物の共有は理想に見えて、うまく行かないのは当然だったと思います。

  そこで、12使徒たちは祈りとみ言葉に専念し、給食活動は専任の他の人たちに任せて、霊と知恵に満ちた評判の良い信頼できる7人を選んだのです。中でもステファノは信仰仲間だけでなく、自発的に一般民衆の中に入って、彼らの目線に立って素晴らしい業を行ない、民衆に慕われ尊敬されたようです。

  それが、「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と書かれていることで、彼は、神の恵みに豊かに満たされ、活き活きとイエスを証ししてパワーに溢れて活動したのです。

  「ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した」のです。

  「解放された奴隷の会堂」に属する人々というのは、リベルテンと呼ばれる会堂の人たちで、かつてローマとの戦いに敗れて奴隷になり、諸外国に連れて行かれて、その後解放されたユダヤ人、およびその子孫たちのことです。彼らは海外生活が長く外国語が自由に話せ、国際色も豊かなことから、リベルテンという特別な会堂と集団を作って、それに属していました。彼らはいわばユダヤ教の英雄たちで、屈辱的な奴隷状態から抜け出し、ユダヤ人としての誇りを回復したので、ユダヤ人以上に愛国的で国粋的であったに違いありません。

  ところが、ステファノがユダヤ人であるのにキリスト教に転向し、キリスト教徒として民衆から尊敬を得はじめたので、彼を憎悪し敵対し始めたのです。それにキリキヤ州とアジア州出身のユダヤ人たちも加わっていました。

  一体、ユダヤ教のどこが悪いのだ。キリスト教に行く必要などないだろうという訳で、ユダヤ人は全員ユダヤ教でなければならない。ユダヤ人がキリスト教になるのはおかしいと、猛烈に反発してステファノと議論したのです。

  「しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった」とあります。ステファノはそもそも知恵に満ちた人で、その上、神の霊に促されて自由にヒラメキをもって大胆に語るので到底太刀打ちが出来なかったのでしょう。

  そうなると力づくでも、是が非でも彼をやっつけたい。人間はそんなものです。そこで、人々を唆(そそのか)して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせたのです。それが事実なら、冒涜罪で処刑することが出来たのです。

  しかし唆すとは、賄賂を使って人を買収し、根も葉もない事を言わせることです。この言葉は元は、売春を斡旋するというような意味を持つ言葉のようです。非常に汚い手口で唆したのでしょう。

  ステファノは神を冒涜したことがなく、この種の言葉を語ったことがないのに、そういう言葉を彼から確かに聞いたなどと言わせて、目的のためには手段を選ばない訳で、罪なき人を冒涜罪で告訴し、処刑しようとした。

  そして更に、「民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。」唆すだけで済まさず、民衆や長老、律法学者などを扇動した。扇動とは、激しくかき回し、憎悪を掻き立てることです。そしてステファノの不意を襲って、捕らえ、最高法院、サンヒドリンに連行したのです。

  人間の素晴らしさの一つは、行き過ぎたことに気づいて、「ごめん」と言えることです。素直であること。これは個人の間でも、社会でも、国家間でも言えます。ステファノを告訴した人たちは、「ごめん」と言えない人々、言わない人々でしょう。この場合は、憎しみに取りつかれて、「ごめん」が言えない。

  「さっきはごめん」、「いつかはごめん。」この一言は明日へと繋がっていきます。いや、こう言うと、以前よりも一層親しくなるものです。しかし、「ごめん」がないと関係が切れます。

  その辺の事は個人だけでなく、日本政府もよく考えて、憲法改正に走るのでなく近隣諸国とよい関係を結んでいかなければならないでしょう。ましてや国民の65%が改正の必要なしという意見なのです。


       (つづく)


                                           2019年5月5日



                                           板橋大山教会  上垣勝



  ヤフーの板橋大山教会ホームページは、2019年3月31日で終了しました。

  後日、ホームぺー作成の予定。