繋がれる事、解かれる事


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                                                  あなたは用いられる (中)
                                                  マタイ21章1-11節



                                 (2)
  いずれにしろ、イエスは「それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい」とおっしゃったのです。「ほどいて」とは、束縛を解く、解放するという言葉です。単にロープを解くというのではありません。

  「ほどいて」とか、束縛を解いてと言う意味から考えさせられるのは、ロバだけでなく、私たち人間は何者かに束縛されたり繋がれているような所があります。お金や人や会社に繋がれているだけでなく、夫に繋がれ、妻に繋がれ、誰かに首根っこを押さえられているというか、そんな所があるかも知れません。聖書には12年間長血に繋がれて苦しんでいた女性が出て来たり、ハンセン病に繋げられて苦しんでいた10人の男性が出てきたりします。始終金欠病に繋がれ、消費癖の自分の性格に束縛されていると感じる方もあるかも知れません。

  時代が進むにつれて、人々は自由になり自立的になると思っていましたが、私の若い頃より今の方が人々はかなり窮屈な生き方をしている気がします。豊かさの中で、豊かさに縛られているのかも知れません。かつては学生運動も活発でもっと主体的だったし、独立的で覇気もあった気がしますが、社会が豊かで安定するにつれ保守的になり、色々なことを配慮する忖度社会になっています。忖度とは、こちらから進んでする一種の縛りです。その他、因習や風習に繋がれているという場合もあります。

  反対に、人は繋がれているから暴走せず、危険を冒さないという面もあります。ある家族持ちの方が、留学の準備中の語学研修でひとり海外生活をしました。ところが時間があってあちこち旅行するうちにいつの間にかフラフラと迷い出て根無し草になりそうになったと語っていました。自由は同時に恐ろしさも伴います。

  その点、植物はある場所に植えられたら一生そこを動きません。子々孫々その界隈から離れません。むしろ土地に繋がれ、縛られることを良しとして、そこに根を下ろし、そこで花を咲かせ実を結ばせます。植物の方が大胆不敵です。繋がれるという事は決して悪いだけの事ではありませんが、人格を持つ人間はちょっと違います。

  ただ聖書は、繋がれているのを「ほどいて、私の所に引いて来なさい」と述べます。危険な変な所でなく、真の王なる方の許へ引いて来なさい。「主がお入り用なのです」と言われたのです。

  ある方の説教を必要があって読んでいて、私はこれまでどんなアルバイトや仕事をして来ただろうと数えてみました。初めてのアルバイトは高校の卒業式後に教師から勧められてしたメッキ工場です。就職前に経験しなさいという訳です。染色工場にも関わりました。それから日本鋼管の研究所で働きました。ストレスの多い生活でした。大きな決断をして牧師になる大学に進む中、大学に行きながら家が貧しかったので仕送りをしていましたから、家庭教師、焼き鳥屋の店員、港湾荷役労働、病院の薬局手伝い、これは神経を使いました。高校講師、電子会社の夜警(社長の奥さんが時々饅頭を届けてくれました)、明治製菓の倉庫作業、ライン作業もしました。10数種の仕事をしましたが、どこでも自由はありません。当然、縛られています。しかし、イエスの所に引いて来られて、「主がお入り用なのです」とこんな者ですが牧師になり、振り返ると、もしサラリーマンを一生していれば、味わえない多くのものを贅沢に経験したと思います。沢山の素晴らしい方に出会い、多くのかけがえない自由と喜びを味わいました。中でも、「主がお入り用なのです。」こう言って下さる言葉を聞けて、幸いだったと思います。

  ところで、イエスが2人に、「『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」と言われたのは、ロバの持ち主との合言葉だったのでしょう。マタイ福音書はこのイエスの言葉を受けて、これは預言者を通して言われていたことが実現するためであったと書いて、ゼカリヤ書9章、「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って』」を引用しています。

  「お前の王」とあるのは、エルサレムの王であり、イスラエルの王ですが、これを読む私の王、私たちの王をも指します。イエスは王である。王の王なる方である。だが王さま然として名馬にまたがってではなく、背の低い、頓馬な動物。粗食に耐え、我慢強く、ひたすら重い荷物を運ぶのに使役される、駄馬の一種、つまらぬ労働馬を用いられたという事です。

  イエスロールスロイスに乗って入場されるのでなく、駄馬に乗って入場されるのです。イエスは晴れの舞台ですが無様な格好です。決して世の王たる者の威風堂々の姿ではありません。そういう事は望まれません。この後は十字架につながっていくのです。

  悩みを負う者の姿、滑稽な姿なのは、私たちの罪を負っているから滑稽なのです。そんな滑稽な姿で、自分は王だと言えば皆ゲラゲラ笑い出すでしょう。やがてピラトの前で兵士たちから小突き回され王に似せて紫色の服を着せられて嘲笑された。しかしそれが神のみ旨だとすればどうでしょう。イエスはそういう嘲笑されるような低い姿でエルサレムに入場されたのです。

  この姿は、これは私の愛する子、私の心に叶う者と、神の信認を受けられた王なるお方なのです。荒れ野でサタンの誘惑に打ち勝たれた方。そうした権威ある者として神に喜ばれた方が、今、低さと愚かさの象徴であるロバに背に乗って少しも偉ぶらず入場されたのです。

  ところが大群衆は自分の服を道に敷き、手に手に棕櫚の枝を打ち振り、それを道に敷いて、イエスを歓迎したのです。ただ彼らが歓迎したのは、イエスを誤解して、政治的メシア、ローマ帝国の支配からの政治的社会的な解放を行なうリーダーとして歓迎したのです。

  だがイエスは誤解されても、それには利用されずに、ご自分の使命に徹して行くためにエルサレムに入場されるのです。ですからやがて数日後には、この群衆は掌(てのひら)を返したようにイエスを十字架に付けよと叫びます。


         (つづく)

                                           2019年4月7日



                                           板橋大山教会  上垣勝



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