荒波を越えて行く


            ポターが愛した散歩道から帰ってやっと朝食にありつけました。    右端クリックで拡大
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                                               荒波を越えて行く (下)
                                               使徒言行録5章27-42節




                                 (2)
  すると33節にあるように、彼ら大祭司らは和らぐどころか、俄然いきり立って、怒りに燃えて彼らを「殺そうと考えた」のです。

  聖霊に導かれたのですが、却(かえ)って、怒らせてしまった。聖霊に導かれれば、万事がうまく行くなんて言うことはないのです。かえって多くの問題が現れる場合さえあります。これがその場合で、彼らは今にも飛び掛からんばかりの剣幕です。

  しかしその中にも、聖霊の導きがあったのです。民衆から尊敬されている律法学者で、ファリサイ派の指導者ガマリエルの心を、ペトロの証言が強く捕らえたのです。彼は議場に立ち、仲裁に入って、ユダヤの近年の歴史を遡って2つの事件を取上げて、今はこの者たちに手を下してはならない。放っておくのがベストだと述べて、有名になった言葉、「人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」と語ったのです。

  ガマリエルの見識は、キリスト教の将来を予見するものでした。まさに神から出たものであることを認識させたのです。これを聞いていきり立っていた議員らは鎮(しず)まり、同意し、だが弟子たちを鞭打って、「今後イエスの名によって話してはならぬ」と厳しく命じて、釈放したのです。

  厳しく命じられ、鞭打たれて脅されました。だが死は免れ、釈放されたのです。聖霊のご支配があったのです。

  種まきの譬えを、木曜日の祈祷会で何回かに分けて学んでいます。種まきが種を蒔きに出て行き、ある種は道端に、ある種は石地に、ある種は茨の地に落ちました。だが良い地に落ちた種は100倍、60倍、30倍などになったというあの譬えです。この譬えに込められたメッセージの1つは、神の寛大さ、気前良さという事です。種まきは神を暗示していますが、神は石地にも、茨の中にも、それだけでなく道端にも、ポロポロと種が落ちるのを気にされないのです。それらに落ちた種の大半は実を結びません。だが、その中の幾つかは実を結ぶかも知れないですし、良い土地でだけで実をならせなくてもいいという太っ腹な所があります。神は太っ腹です。

  ガマリエルがそれです。彼はいわば茨の地です。だがそこに落ちた種が、弟子たち全員を救い、キリスト教の将来を決することになって行ったのです。

  これは神の聖霊がなさったことです。ペトロたちが大胆に語ったことも、主の使いが牢の戸を開けたとあることも、試練も迫害も、ガマリエルの事も、聖霊の働きであり、導きでした。これら万事が益に働いて荒波を乗り越えて行くのです。聖霊が先頭に立って、荒波を乗り越えさせて行ったのです。使徒言行録は聖霊行伝と呼ばれる所以(ゆえん)はここにあります。神の聖霊が荒波を一つ一つと乗り越えさせて下さっているのです。

  単に乗り越えさせたのではありません。釈放された使徒たちは、41節にあるように、「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」

  「辱めを受けるほどの者」とは、アティマゾーというギリシャ語が使われています。イエスの名のために、軽蔑されるに足る者という意味です。イエスのために軽んじられる程になったのを喜んだのです。福音を恥としなくなった。これでやっと、イエスを見捨てて逃げ去った事の罪滅ぼしが出来たと思ったかも知れません。いずれにせよ、辱めを受ける程の者にされたことを、誉と考えるようになったのです。これは神の聖霊の御業としか言えないと思います。

  マタイ5章でイエスが言われた事をこの時、悟ったかも知れません。「私のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。天には、大きな報いがある」という事でしょう。あるいは、彼らは、後にパウロがフィリピ書で書いたように、「あなた方はキリストを信じることだけでなくキリストの為に苦しむことも、恵みとして与えられている。」このような、苦難の恵みという、一段深い恵みを知っていったのです。これらはすべて聖霊の働きです。人生の深められた生き方に導かれて行ったのです。

  それだけでなく、毎日、欠かさず、神殿の境内に入って、禁じられたに拘わらず、民衆にイエスの道を説き、家々でも教えたのです。捕まっても、イエスの福音を告げ知らせてやまなかった。実にタフです。懲りないのです。徹底して福音を語り続けることをやめなかった。

  ここに示されているのは、次々と襲う社会的な荒波を越えて行く彼らの姿です。本当にしぶとく、めげません。やはり聖霊が先頭に立って導かれたとしか言えません。

  この間も論語の事に触れましたが、「論語」はやはり封建制度を強める書物だと思いますが、それはさておいて、やはり色々教えられる点があります。孔子はこう言います。「本(もと)を務む。本(もと)立ちて生ず。」素晴らしい言葉です。君子は、根本の事に努力する。根本が定まって初めて進むべき道もはっきりするという事です。

  キリストの弟子たちは根本の事、キリストは十字架で磔にされたが、神の意志によって復活したこと。この根本の事、本を務める時に道生じるという所に、揺るぎなく立って生きたのです。

  預言者エレミヤは17章で、川の畔に植えられた木のイメージを使って語っています。主に信頼する人は、「水の畔に植えられた木」だ。水路の畔に根を張り、暑さが襲っても、葉は青々と茂り、旱魃の年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。

  人の根本は神に立ち返ることです。ここに根を下ろす時、心に平和が訪れ、希望が湧き、勇気も生まれ、大胆さも与えられ、しかも愛の枝々、小枝を伸ばして茂るでしょう。聖霊が襲い来る荒波をも次々と乗り越えさせて下さるのです。



       (完)

                                           2019年3月31日




                                           板橋大山教会  上垣勝



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