祈りの民


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                                                思い切って生きよう (2)
                                                使徒言行録4章23-31節




                                 (2)
  キリスト教徒は祈りの民です。祈りこそが大きな力を持っているのです。祈りを忘れたクリスチャンは、もはや気の抜けたビール、歌を忘れたカナリヤ、神通力を失った孫悟空のようです。しかし弟子たちは、個人的にも集団的にも、困難が迫った時や心配事や危機に直面すると常に祈ったのです。これは古来からの私たちの命を支える伝統です。

  モーセは60万の民と共に、40年間シナイ砂漠をさまよい、出エジプトさせて行きます。出エジプトはやすやす出来たのではありません。その間、何十回も試練に次ぐ試練を受けます。もうダメかと思う事もしばしばでした。彼自らが激しい批判に晒され窮地に立たされます。だが彼は破れ口に立って、破れ口に身を置いて困難を乗り越えて行くのです。優秀だからそれが出来たとか何とかではありません。祈りつつ、求めつつ、あえぎつつ進んだのです。

  先週は創世記2章から、神は男と女を響き合う存在に、助け合う者としてお造りになったという事の意味を学びました。しかし、話し終えて私は思いました。もし響き合わなくなったらどうするのかという事は、触れなかったのです。

  心が響き合わなくなればどうすればいいのでしょう。皆さんはどうされますか。

  模範解答は知りませんが、響き合うように努力する以外にないでしょう。響き合わないから、もうダメだとすぐ諦める。そんなせっかちな仕方でなく、相手と気持ちを合わせる。何とか合わせようとする。その努力をするかどうかで随分違うでしょう。それが和解を創り出すという事です。

  また、そんな時こそ祈りが残されています。こういう時にはぜひ祈って下さい。また心が響かなくなる中で、その悩みを抱えて聖書に向かうのです。「門を叩け」と言われたのですから、門が開くように祈り、格闘するのです。すると各自それぞれの解決策が示されて来ます。もしかすると、ヘブライ書12章の、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」という言葉が示され、自分の罪と闘って血を流すまでの抵抗が、自分には必要だと気づかされるかも知れません。また、「思い煩うな」という言葉でスッと収まるかも知れません。祈りの中で示される、自分と相手への、事柄への澄んだ目が問題を乗り越えて行く力を与えるでしょう。

  他者との対話は骨が折れます。しかし神は女と男という、異質な他者と出会うようにお造りになったのです。そのことを、祈りで格闘する中で、心の変化を経験し、その変化を感謝して自分の言葉で語れるようにまでなれば幸いです。違いを感謝し、喜び、響き合う世界を少しでも広げて行きたいものです。


        (つづく)

                                             2019年3月17日



                                             板橋大山教会  上垣勝




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