女と男の関係


            殆ど人が訪れないポターたちのこの小さな湖には盛んに水鳥が飛来します。
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                                                    二人は一体 (下)
                                                    創世記2章18-25節



                                 (3)
  そこで主なる神は、人を深い眠りに落とされたのです。人が眠り込むと、肋骨の一部を取り、その跡を肉でふさがれた。そして、取ったあばら骨で女を造り上げ、彼女を人のところへ連れて来られたというのです。

  男と女の関係ですが、女はアダムが深く眠っている間に造られた訳で、男には全く未知の存在です。確かに男にとってまた女にとって、相手は未知ですね。形も違っているのに、相手も人間なんですから実に不思議です。男が知らない間に女が造られたのです。男が女を造ったのではない。女の創始者は男でなく、神です。しかも男の心臓部を守る、最も大事なあばら骨を抜き取ってお造りになったと述べます。足の骨で造られたのではない。もしそうなら、女はいつも男の下に、支配下にいなければならないかも知れない。しかし頭の骨、頭蓋骨で造られたのでもありません。もしそうなら、女が男の上に君臨するかも知れません。そういう男女もままありますがね。

  神は、男の心臓部を守る大事なあばら骨をお用いになった事は、男と女が心において対等の関係で生きるように作られた事の、シンボルでしょう。対等です。だが対等に張り合うのでなく、対等に互いに仕え合い、対等に助け合う存在として、響き合うものとしてお造りになったのです。

  さて、神が連れて来られた女を見た男は、喜びの喚声を上げて、「遂に、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と言ったとあります。ヘブライ語で男はイシュ、女はイシャーです。かけ言葉です。

  彼女は、アダム自身のあばら骨の一部から造られた、私の骨の骨であり、彼女は私自身であり、私は彼女自身であるという事。私と彼女は本質的に同一だという事の発見の喜びです。男と女が共同生活しているとそういう発見があります。しかも本質は同じでありながら、別人格であることの驚きと賛美でもあります。

  このように、一体だけれども別人格という所には、豊かな意味が含まれています。一体だからと言って、相手に強制はできません。別人格なのですから。だが別人格だけれど一心同体です。響き合っているからです。だが一心同体であるが、二つの別人格です。

  互いに相容れないというよりも、互いの違いによって豊かにされるのです。違いがあるからよく響き合い、助け合うこともできるという神の配剤、仕組みなのです。

                                 (4)
  こうして24節以下は、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と結ばれています。

  24節は、結婚式で読まれる聖句です。結婚、それは「離れて」とあるように、二人が両親から離れる時です。離れるとは親からの心と生活の自立であり、独立です。実際的には別の生計を立てることです。そして独立は、親たちとある種の対等関係に入るという事です。親との対等な付き合いが始まることでもあります。と言っても、よそよそしくなることではありません。それは不自然です。ただいつまでも親にべったりでなく、独立し、別個の世帯を持ち、親子であることは変わりませんが、普通の人間同士の付き合いが始まるという事でしょう。

  親ばなれであり、子ばなれです。その独立の下で、2人の一体が起こります。

  一体とは、引き裂けない関係を指します。結婚式で時々私は申しますが、2枚の紙がノリで貼り合わせられて、暫くして2枚の紙を剥がそうとすれば、必ず2枚の紙は共にビリビリ引き裂かれ、2枚とも深く傷ついて破れます。もはや結婚前の健やかな快活な形態をとどめません。そのトラウマは深く魂を傷つけ、もし両者に子どもがある場合は、子どもの魂は生涯ぬぐえない深い傷を負うでしょう。

  最初にお話ししたベニシアさんの場合がそうです。この方はそのトラウマも何十年か経って、「気を落さないで、庭を、人生をより美しく立て直す機会」と語るようになられましたが、神はその様な配慮をもって修復の機会を備えられますが、それでも一生そこまで行けない人たちもあります。その場合は本当に残念です。

  神がこのように、男と女をお造りになったことは、私たちの人生と社会と、世界の誰も変更できない基盤にあることです。響き合いとは対話です。キャッチボールのように、意見や考えが違う球が返って来るかも知れませんが、それを受け止めてまた投げ返す。そうして響き合うように、神は私たち人間をお造りになったのです。

  響き合いの基本練習は家庭でなされます。最初はお母さんとの間で、初めてお母さんの乳首に口をつけておっぱいを吸うこと、それは既に人との響き合いの始まり、練習です。次にお父さんや兄弟が入って、響き合いの練習が深まり、響き合いのバラエティが出てきます。家庭というのは、私たちが考えている以上に大切な場所です。一生を価値づけ、方向づける程のものがあって、決して侮れません。響き合いの基本練習は家庭から始まるのです。子育てと言いますが、子育ての最も基本はこの響き合いの練習と言って過言ではないでしょう。

  それができると、成人になって、様々な人とコミュニケーションがスムーズに行きます。インド人とも交流でき、エスキモー人との間に住んで肝胆相照らす仲間になれるでしょう。互いに心を開いて、自分を越えた他者の目で世界を見ると、世界が広がり、色合いも違って見え始めるのです。

  国際化の時代はますます進むでしょう。私たちは異質な他者との出会いで自分の殻を破ると、もっと自分の地平が広がり、これまで見えていたよりももっと遠くまで見えるようになるでしょう。神は何と素晴らしい世界を準備下さったのでしょう。

  他者との対話は骨が折れます。しかし神は女、男という、異質な他者と出会うように、男と女を、女と男をお造りになったのです。これを感謝し、喜び、響き合う世界を少しでも広げて行きましょう。


      (完)

                                             2019年3月10日



                                             板橋大山教会  上垣勝




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