ペットと人間


        この小さな湖はポター夫妻が買い取り、彼らはこの湖でよく舟を浮かべて楽しんだそうです。
            ポターが死ぬと一切がトラスト運動に捧げられ、トラスト運動が飛躍的に伸びて行きます。
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                                                    二人は一体 (中)
                                                    創世記2章18-25節



                                 (2)
  先程はちょっと長い話でした。中学生は分かったでしょうが、小学低学年は難しかったのによく聞いてくれました。

  さて、地球は青い水の惑星です。宇宙から見るとまるで美しいエデンの園に見えるようで、私たちはエデンの園に置かれているのかも知れません。

  京都の大原に、ベニシアさんというイギリス人が古民家に住んで、何種類ものハーブや草花を育て、英語学校を開き、素晴らしい文章を書いて本を出しておられます。

  ベニシアさんは、庭に出て花のなどの世話をしていると、「地球との深いつながりを感じる」のだそうです。私も教会の狭い庭で花の手入れやブドウの世話をしていると、不思議ですがいつの間にか地球との深いつながりを感じています。そしてこのつながり感は喜びを与えてくれます。

  草花の世話をしていると、いつの間にか心と体が自然に生き返るのです。ベニシアさんは、ガーデニングは心と体を生き返らせる楽園と書いておられました。エデンの園というのは、人間の原初の体験として誰もがアプリオリに持っているのでしょう。

  この方のこんな言葉が心に留まりました。「ある朝起きたら、庭の一部が台風で荒らされている事があるかも知れない。それも自然の一部なのです。気を落さないで、庭を、人生をより美しく立て直す機会なのですから。」挫折も障害も、人生をより美しく立て直すチャンスとして与えられている。素晴らしいですね。

  この方は、広大な庭とお屋敷、百以上も部屋がある大きなお城に、イギリス貴族の名家(めいか)に生まれましたが、母との長年の葛藤に苦しみました。何しろ母が、夫を3人、4人と奔放に変えて、ベニシアさんは父親が次から次に変わっていく上流貴族の母の生き方が容認できず、イギリスを飛び出した方です。

  両親は信頼し響き合っていたと思っていたのに、学校から帰ったら別の男性が来ていて裏切られる訳で、それを何度も経験した。その経験の中で書いておられるのでしょう。たとえ台風に荒らされても――何を言っているかお判りでしょう――、なお落胆せず、それも人生をより美しく立て直す機会だと語るベニシアさんの考え。その根は、小さい頃から培われたキリスト教の寄宿舎学校での学びや祈り、讃美歌の歌詞、聖書の考えなどが基になっているようで、やはり信仰という財産に生かされる素晴らしさを思います。

  長い前置きでしたが、子どもたちにお話しした、「彼に合う助ける者」は、ある英語訳では、響き合うパートナーとなっています。ヘルパーやアシスタントではありません。そうなら自分が主で、相手は自分に仕える一方の者です。ダンスは独りでなく、2人でするものです。お互いに相手を必要としています。お互いが主人公になり、お互いに仕え合うのがパートナーです。

  古い人ですがフランスのシャトー・ブリアンという人は、「女がいなかったら、男は粗野で孤独であろう」と書いています。粗野な男も、繊細な女性によってやっと人間性を保っているのかも知れません。むろん反対のケースもあるでしょう。女性の方が粗野だったりして。

  いずれにせよ、パートナーは喜びと苦しみを共にするのです。「分かち合われた苦しみは、喜びに変わる」とマザー・テレサが言った通りです。喜びは共にするが、苦しみは共にしない。そうじゃない。響き合って、互いに助け合う者を造ろうと、神は言われたのです。

  最初にアダムの所に持って来られたのは、家畜や空の鳥、野の獣たちでした。アダムは各々に名前を付けて呼んだとあります。名前を付けると親しみが湧きます。記号や番号で呼ぶのとは違います。名づけると、自分の所有になり、自分の分身のようになりさえします。

  アダムもそうだったでしょう。犬や猫をペット、愛玩動物にしたかも知れません。しかし愛玩動物愛玩動物の域を出ません。じゃれたり、体を摺り寄せて来たり、なついたり、慕って来たりしますが、心が響き合うという所まで行きません。動物にも少しの心があるようです。だが魂といったような高い人格を備えるものではありませんし、助け手としてパートナーにはなりません。盲導犬のように一種のパートナーの働きはしますが、そして中に愛情の深い犬もいますが、響き合う助け手にはなりません。動物の域を出ることはないのです。

  繰り返しますが、どんなに愛犬が可愛くて家族の一員になっても、愛玩という言葉が示しているように、もてあそび、楽しみ、可愛がりますが、またペットが死ねば辛く悲しいですが、それは人の死を悲しむ心をペットに投影しているからで、反対に動物が人間同様に人の死を悲しんだり、嘆いたり、人の死によって、犬が思想的に自己の考えを深めたりすることはありません。そういう次元の高い所で響き合ってくれません。最近の童話などで、そういう動物と人間との友情を描くものがあったりしますが、人間の創作です。童話作家の考えの産物です。

  「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」とあるのは、そういう意味です。聖書はその点、リアリスティックです。現実を踏まえています。


      (つづく)

                                             2019年3月10日



                                             板橋大山教会  上垣勝




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