無学な普通の人でよし


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                                                  無学な普通の人でよし (下)
                                                  使徒言行録4章1‐14節



                                 (2)
  ところがペトロは、更に有名な言葉を語りました。「他の誰によっても、救いは得られません。この方以外に救いはない。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」実に大胆です。何者もはばからず率直に語りました。ペトロの心の中には、イエスは復活された、死に打ち勝たれた。人は十字架に磔にしたが、神はイエスに勝利を与え、義とされた。死の力は打ち砕かれたのだ。死も黄泉(よみ)も恐れる必要はない。神は生も死も支配しておられる。恐れる必要はない。救いはイエスの他、どこにも存在しないとの、確たる神の促しが心に響いていた筈です。

  聖霊に満ちて語るペトロの証に、議会の面々は、何と語るべきか、言葉を失いました。傍聴席かどこかに癒された本人がいては、もはや言うべき言葉はありません。最高議会の権威も無力で、歯が立たなかったのです。

  コリント第1の手紙に、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。…神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」とあります。この「あえて」が神によってなされる時に、大いなる意味が生まれ、人間を越えるものが誕生するのです。私たちのような詰まらぬ者が、王の王なる方、主の主なる方によって、「あえて」お選び頂いているのです。

  議員たちはペトロやヨハネの大胆な論証と態度に触れ、しかも2人が無学な普通の人であることを知って驚嘆したのです。当時、無学な普通の人とは無教養の文字を知らぬ文盲の人、しかも普通の信徒という意味です。

  無学な普通の人も、人としての尊厳を持っています。すべての人間の根底には神との確かな関係があるからです。当人は気づかなくても厳然と関係が今も存在します。イエスはその関係をもう一度思い出させ、神と私たちとの関係を、十字架を通して立て直すために来られたのです。

  私たちは完全な意味で神の被造物です。神の被造物であることの恵みを知って生きる時に、救いが来ます。神以上に自由にして下さる方は他にいません。しかもその自由は、勝手放題な自由でなく、他者の自由を尊重する自由であり、自分を愛するように他者を愛するという喜ばしい自由です。自分の自由と他者の自由の尊重。他者への責任と愛。キリスト程、これらを明らかにされた方はどこにもありません。私たちはこの素晴らしい方に連なっているのです。

  12節の言葉にもう一度心を留めましょう。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

  このことを本当に知れば、家族の中で自分だけが救われていればいいとは思わなくなるでしょう。夫も妻も子ども、父母も、家族全員の救いを祈るに違いありません。また、私たち自身が家族の躓きになるものを行なっているなら、それをやめる決意をして家族の救いのために祈るでしょう。

  家族の躓きになる悪癖や習慣。それをやめなければなりません。それをやめ、新しくなって、家族の前に出るのです。すると家族も救われるでしょう。自分が救われないで、家族が救われればいいと願ってもそれは無理です。

  先ず自分が救われ、家族も救われて新しくなれば、必ず家庭に変化が来ます。

  「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」信仰者とは、「ここに本当の宝があるぞ」と呼ばわる人です。あるいは、「ここに人生のジャングルの抜け道があるぞ」と呼ばわるのです。信仰には、諦めはありません。自分が持つ最大の悩みや問題も、イエスの名によって克服され、救われて行くと信じて進むのです。この名によって救いは来るのです。家造りらが捨てたこの石は私たちの救いの最後の要石となるのです

  私たちは自分が抱える最大の悩みや問題をイエスの前に持ち出して祈りましょう。確信して祈るならば、山も動き出すでしょう。繰り返し、繰り返し、神に祈っていくのです。

  2千年にわたる全ての信仰者たち、先輩たちは、そのことをして来ました。アウグスチヌスなどといった巨大な人物もルターも、カルヴァンも、いかに偉大な信仰者と言えども同じです。それを実行するかどうかです。

  「絶えず祈れ。」「執拗に祈りなさい。」「門を叩き続けよ」と、主イエスは申されました。代々の信仰者は、門が開けられる事を信じて、祈りつつ夜が明けるのを待ったのです。

  聖書の最終ページを開けてご覧ください。ヨハネの黙示録22章の最後は、「来てください。」「主よ、来たりませ。」「アーメン。主イエスよ、来てください」という祈りの言葉で閉じられています。まるでオリンピックの聖火ランナーが次々と聖火を渡して行くように、最初のキリスト者らによって祈られたこの祈りは、次のランナーに手渡され、また次のランナーに手渡されてと、この2千年間、次々とこの祈りの聖火が手渡されて、私たちの所に来たのです。

  「アーメン。主イエスよ、来てください」助けて下さい。憐れんで下さい。弱気になっちゃあいけません。投げ出しちゃあなりません。気持ちを腐らしてはならないのです。気持ちを腐らせず、この祈りの炎を人生の最期まで持ち運び、「主イエスよ、来てください」と神に祈りる生活を貫いて行きましょう。


        (完)


                                             2019年3月3日



                                             板橋大山教会  上垣勝




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