慎重すぎて言うべき事を言わないなら


ポターの道を行く人はこの目印を見落としてはいけません。迷子になります。The National Trust のルートです。
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                                                  無学な普通の人でよし (上)
                                                  使徒言行録4章1‐14節



                                 (1)
  「美しの門」の前で、不自由な足を癒された男がきっかけで起こった一連の事件が、今日の所でも続きます。ペトロとヨハネが神殿の境内に集まって来た民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が足早に近づいて来たのです。

  神殿守衛長とは神殿警察署長です。彼は治安を乱す者を取り締まる特別な権力を持つ人物です。サドカイ人は貴族の仲間で、彼らから多くの祭司長を輩出して来た世俗的な権力者たちです。祭司はやはりサドカイ派と結びつきがあります。

  多数の民衆が集まっていると知って、ペトロたちの行為が治安を乱す、ローマ総督の怒りをも買うものと判断して、苛立ちを隠さずやって来て、有無を言わさず2人を逮捕し投獄したのです。不法集会、民衆の扇動罪、騒乱罪、暴動準備罪。色々な罪状を並べて、彼らを拘束したでしょう。

  ところが、2人の話を聞いてイエスの復活を信じる人は多く、男だけで5千人程に達したと報じています。この数は先に、2章のペンテコステの事件がきっかけで洗礼を受けた3千人程の人と合わせた合計でしょう。

  いずれにせよ、ペトロとヨハネは投獄されましたが、多数のユダヤ人がキリストを信じて仲間に加わったのです。短期間でしたが、彼らは既にイエスの事件を身近に知り、十字架刑の時の状況もよく知っていますから、ペトロの証に心を動かされて、短い間に信仰を持つに至ったのでしょう。

  翌日、「議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった」とあります。彼らはこの国の錚々(そうそう)たる重鎮ですが、続々と最高議会=サンヒドリンに集合して、大祭司とその一族も総出で集まって来ました。なぜなら、首謀者イエスを処刑したのに、まだ弟子たちの息の根を絶やせないでいることに危機感を募らせたのでしょう。

  彼らは使徒たちを最高法院の真ん中に立たせて、「お前たちは神聖なる神殿の境内で、何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。誰の許しを得て、こんな大それたことをしたのか」ときつく尋問しました。

  普通の人ならこれで参ってしまいます。ところがペトロが「聖霊に満たされ」力づけられ、神の霊に語るように促されて、「民の議員、また長老の方々、国の指導的な皆さん。今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、彼が何によっていやされたか、誰が彼を癒したかということについてなら、ここにおられる皆さま方も、更にイスラエルの民全体も是非とも知っていただきたい」と、集まった人たちを見回しながら話し始めたのです。「知って頂きたい」とありますが、これは民全体が知るべき事柄です、是非とも知って頂きたいという意味です。

  そして何と、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と、いささかも彼らを恐れず、ズバッと本質的な事を語ったのです。

  日常生活における人々への愛の配慮は必要です。繊細な愛の配慮を受けると感謝が湧き溢れます。しかし引いてはならぬ、肝心な時に、神が語れと言われるのに、慎重すぎて言わねばならぬことを言わないなら後悔が残るでしょう。彼は聖霊に促されて真実を堂々と述べたのです。

  当人たちの前で、これは大変言いにくい事です。だが彼は敢然と、「皆さんは十字架につけて殺したが、神が復活させられたナザレ人イエス・キリストの名によって、この人は良くなったのです」と、傍聴席かどこかにいる、その人を指さして証をしたのです。ガリラヤ訛りのズーズー弁で証言した。

  聖書にある「証し」という言葉は、元のギリシャ語でマルチュスと言います。このマルチュス、証しから、英語のマーター、殉教者という言葉が生まれました。ペトロは殉教を覚悟で、キリストを証ししたに違いありません。この時彼は、「必要な時に語るべき言葉が授けられる」と言われた生前のイエスの言葉を思い出していたでしょう。

  そして更に、「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」と、かつてイエス詩編118篇から引用された言葉を、彼も引用して語ったのです。「隅の親石」とは、建物の最後にはめ込む要石(かなめいし)です。その石を嵌(は)めれば、建物が揺るぎないものとして完成するのです。

  イエスこそ、皆さんによって捨てられましたが、世界という建物、人類社会という建物、また信仰という建物を揺るぎないものにするため、最後にはめ込まれるべき隅の親石だという意味です。これは最高議会の人たちにとっては、容赦ならぬ、聞き捨てならぬ言葉だったでしょう。

        (つづく)


                                             2019年3月3日



                                             板橋大山教会  上垣勝




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