メルケル著「わたしの信仰」


  ポターの散歩道には羊たちだけでなく野ウサギが群れていました。これが痕跡です    右端クリックで拡大
                                  ・




                                                 君の力の源は何ですか (下)
                                                 使徒言行録3章1-10節



                                 (3)
  冒頭でお話したメルケルさんは青年時代に、行動において「自分を導いているものは何か」を問い、自分は何を基準とするのか、何故それをするのかと考えました。自分を立ち上がらせ、歩ませる根拠です。そして、「信仰と希望と愛」。この聖書のみ言葉に自分の根拠を置いた。それで自分は多くのものごとにおいてこのみ言葉に導かれていると語っています。

  即ち彼女は自分の力の源を持ちたいと考え、それを与えられたのです。そしてそれを持つことが、いかに人を逞しく、骨太にするかを、この本から教えられます。この方もペトロのように、金銀でなく真の力の源を得たのです。ナザレ人イエスの名によって歩こうとしたのです。

  ついでにメルケルさんのドイツやEU,さらに国際的な政策の姿勢の一端をご紹介して終わります。

  メルケルさんは、経済的な社会的な繁栄の大切さをむろん知っていますし、一国の首相ですからそれを大事にしますが、決して富裕層だけの成長とか、富裕層を中心とした成長を考えていません。いや、そのような考えは社会に「害毒をもたらす」と考えています。この方は聖書からこういうことを導き出しているようです。

  ローマ教皇フランシスさんの言葉を引用してこう述べています。「教皇は、金融危機の背後、その核心部分には人間像の危機がある」と警告しているというのです。人間の腐敗の危機でしょう。「人間を、消費の欲求だけに限定してしまう考え方。もっと悪いことに、今日では人間そのものが、利用したら捨てることのできる消費財と見なされている。」このとんでもない恐ろしい考えによる危機です。日本を、世界を、薄っすらと覆う雲は、人間を「利用したら捨てることのできる消費財」と見なす考えです。それは世界をおおう害毒です。

  それに対してメルケルさんは、やはり聖書から出て来るものですが、人間は尊厳であるという考え。これは何者も犯すことは出来ないものだと考え、それを徹底するのです。使い捨て、消費財。資本主義経済だけでは人間の尊厳は曖昧になると洞察しています。欲望がそれを曖昧にするからです。利潤への欲望が人間の尊厳に制限を加え、出来るなら排除しようとするからです。しかし、いかなる人にも、貧困ライン以下の人たちにも、路上生活者にも、外国人労働者にも、人間は尊厳であるという事が貫かれなければならないのです。こう言います。「社会で一番弱い人たちに対して不正が行われるべきではありません。将来においても、私たちは彼らを念頭に置き続けるべきです。」彼女は外国人にも人間の尊厳を当てはめるのです。聖書が語るように、民族、人種によらず、むろん性別にもよらず、神はすべての人を尊厳あるものとして創造されたからです。

  これは若者にも、年配者にも言えます。今日は若者たちへの国の責任は飛ばしますが、年配者についてこう語っています。若者のスピードに対し、年配者の経験や知識、ルーティーンも重要なものだと評価した上で、若者と老人の「正しい配置が必要」だと述べます。

  そして、「高齢者が抱える弱みを公の議論から排除することは許されない。」老齢期は弱さや疾患とも結びついている。だから「尊厳ある死に方」という課題も、社会の外縁ではなく、「中心に入って来る大きな問題の一つ」ですというのです。

  人間の尊厳の問題とは高尚で抽象的な問題でなく、こういう身近な問題のことです。

  メルケルさんはグリム童話の年取ったお爺さんと孫の話から、老人に対する見方を述べておられました。童話の中のその老人は震える手でいつもスープをこぼします。それで息子とその妻は、食卓から老人を追放して、ストーブの裏側の片隅に座らせ、殆ど食べ物を与えないのです。ところがスープ皿を落として割ってしまうと、木の鉢を押し付けるのです。

  すると小さな孫が登場して、小さな木の餌箱を作るのです。ニワトリとかブタとかの餌箱でなく、小型の餌箱です。それを見ていた父親が、「何のためにそんなものを作っているんだい」と尋ねると、少年は、「お父さんとお母さんが年取った時のためだよ」と答えたのです。

  その時、初めて両親の目が開くのです。人間の尊厳です。人間の尊厳に目を開かれたのです。

  ペトロはこの男に無関心を装って通り過ぎることは出来ました。だが、彼は信仰者として、無関心であることは出来なかったのです。その信仰は愛に生きる信仰だったからです。愛に生きる信仰だから、この出来事が起こったのです。そしてこの小さな出来事が、その後の教会の発展に画期的なことになるのは、使徒言行録を通読して下されば分かるでしょう。

  私たちの教会の歩み。私たち個人の歩み。そこにおいても、一見小さな事と思えるものの中に将来大きな影響力を持つ芽が含まれているのです。そういう芽を大事にしたい。生まれつき足のきかない、美しの門の傍に置かれていた、これ迄しょうもない人生を送って来たこの男の、小さな事件が、キリスト教会の発展に重要な事件になったことを、私たちはよくよく考える価値があります。


        (完)

                                             2019年2月17日


                                             板橋大山教会  上垣勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・