君の力の源は何ですか


              ポターの散歩道を行くと行く手に羊たちが群れていました      右端クリックで拡大
                                  ・




                                                 君の力の源は何ですか (中)
                                                 使徒言行録3章1-10節


    (前回からつづく)

  ところがこの群れは、小さな事件がきっかけで飛躍して行ったのです。それは偶然だったのか、偶然をうまく捉えたのか。うまく捉えたのであるが、聖書はそれを聖霊の働きと見ています。その小さな事件が、今日のこの事件です。

  ペンテコステの出来事があって何日か、何週間後か、ペトロとヨハネが、午後3時の祈りに神殿に出掛けましたが、神殿の「美しの門」の傍(そば)に、生まれつき足のきかない男が運ばれて来たのです。「美しの門」は黄金門とも呼ばれます。金銀銅などで飾られ、朝日を浴びると巨大な石の門全体が非常に美しく黄金色に輝くところから、「美しの門」と言われていたのです。

  男は、「ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた」のです。彼は別に信仰など求めていませんでした。ましてやイエスを信じたいとか、イエスはどんな人かを知りたいとも考えていなかったでしょう。その日一日、何とか食っていければよかったのです。その日一日のお金が欲しかっただけです。

  午後3時の祈りに殊勝にも神殿に集まる人は、特に信仰心に富む、心優しい人でしょう。もしかすると普通の人以上に、何かの苦しみや悲しみを知る人かも知れません。もしそうなら憐れみの心も大きいでしょう。午後3時頃は昼寝の時刻です。それにも拘らず祈りに来るのは、よほど時間に余裕のある金持ちかも知れません。

  彼は、ペトロとヨハネらが近づくと施しを乞うたのです。今は路上でホームレスはいても、いつの頃からか、乞食をする人が日本では見かけません。ヨーロッパでは今もいますが、日本ではどうしていないのでしょう。この違いは何か、理由がある筈です。乞食は道交法で禁じられているのでしょうか。お巡りさんに叱られるのでしょうか。ヨーロッパでは禁止されていません。もし乞食を禁じれば市民は許さないでしょう。公園の長いベンチが仕切られて、疲れても寝そべることもできない。日本では市民への管理が厳しくなっています。

  それはそれとして、呼びかけられた2人は男をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言ったのです。男はパッと目を輝かして、2人を見つめたでしょう。「わたしたちを見なさい」と言われたのですから、当然、期待しますよ。誰だって期待して顔を輝かすでしょう。犬だって嬉しそうにシッポを振るでしょう。

  するとペトロが、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったのです。

  男は、エッと、一瞬何のことだか分からなかったでしょう。しかしその意味を知って、ガクッと来たでしょうね。ペトロは、自分が言っている意味が男に通じるかどうかなど考えていないかのようです。それでも、自分が今そう考えている事を、ためらわずはっきり語ったのです。彼はこう語ると共に、「右手を取って彼を立ち上がらせた」とあります。

                                 (2)
  一体ペトロは何をしているのでしょうか。それがこの個所のメッセージです。ペトロたちは当時、神殿に詣でに来たものの、ユダヤ教徒たちから絶えず警戒されていましたし、余分なお金などあろう筈がありません。

  彼は、持っていないのに持っているかのように見せかけませんでした。「わたしには金銀はない。持っているものをあげよう。」彼は自分が持っているもので勝負しようとしたのです。自分が支えられ、喜びとし、信頼でき、世界に誇れるもの。自分にとって確かなもの。万物の源であるお方、十字架の血で自分の罪を清めて下さった愛の主。自分はこのキリストによって歩いています。この方を持っています。この方で支えられています。

  今、自分たちは大きな衝撃を受け、ユダヤ教徒らから絶えず警戒されて苦境に立たせられていますが、私たちの存在を根底からお支え下さり、希望を授けて歩けるようにして下さっているのはこのお方です。そういう長ったらしい説明など一切していませんが、説明すればそういうことです。私たちの希望の根拠、信頼できるお方はこの方です。あなたもこのお方の名によって立ち上がり、歩きなさいと勧めたのです。

  これは何と勇気ある事でしょう。非常に大胆です。もしこの男が歩けなかったらどうしようなんて考えていません。その時はその時の事です。その時は、その時に示されることをすればいいのです。いずれにしろ床を取上げて歩いて欲しい。自分の足で生きて欲しいのです。

  それにしても右手を取ると、男は立ち上がって歩き出した。「足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだし、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」と記されています。

  生まれながら足が不自由ですから、今日理性的に考えれば、到底こんなことは出来ないと思います。急に立ち上がれば転んで骨折しないとも限りません。これは創作でしょうか、誇張でしょうか。いずれにせよ、彼が癒されたという事は確かですし、10節や11節以下を読めば、民衆はこれがお芝居でない事を見ています。また、彼自身も神の恵みに大変感謝して、2人と一緒に境内に入って感謝のお参りをしています。

  この聖書が語ろうとしているのは、単に生まれつき足のきかない男が癒されたという事でなく、人は自分の生きる根拠を持たない時には、自分の足で立つことが出来ないという事でしょう。自分の生きる根拠がないと自分に閉じこもりがちになり、家に閉じこもりがちになってしまいます。自信がなくて外に出れないのです。自分の足で歩いていないからです。若い頃の私はその傾向があったので、よく分かります。

  ペトロはこの男と同様、金銀もこの世の物も、ほぼ何も持っていなかったのです。ただ何を支えにするかという事だけは、雲泥の差がありました。男は金銀であり、人々の施しや世話に依存していましたが、ペトロはナザレ人イエスの名によって立ち、歩いていました。

  「わたしには金銀はない。」ペトロもいわば、その日暮らし同然です。だが逞しく、他人に寄りかからず、隣人を愛し、励まし、主を証しして生きていました。更にペトロはイエスの名によって、冒険の道を歩み出していました。無一物であることが一番天国に近い場所なのです。

  ところが、男は施しで生きていました。小さい頃から人に頼り、足が聞かないのですから致し方がありませんが、大人になっても人に頼り、今や自分の足で立とうと願わなくなっていたのです。人生を恨んでいたかも知れない。ただ、そんな考えだと、天国から一番遠くなります。それでペトロは、この男を、冒険へ連れ出そうとしたのです。このお方には、私たちが冒険の道へと踏み出すに必要な、活力の源がある。残酷にも十字架に付けられたが、神が復活させられたキリスト。人々が十字架に付けて殺したが、神は彼を甦らせ、主とし、メシアとされたキリスト。このお方に、君が自分らしい人生を始めるに必要な、力の源がある。必ずそれがあなたに与えられると、彼の人生の再出発へと促したのです。

(つづく)

                                             2019年2月17日


                                             板橋大山教会  上垣勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・